tach雑記帳
岡崎京子
作品論
作家論
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岡崎京子と80年代
あなたと京子とレーガンと…
或いは、
なぜ、私は心配するのをやめて、
バブルと戯れることにしたのか?
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since 2002.08.17
by tach
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本 文
…みんな、口をそろえて
「八〇年代は何も無かった」ってゆう
何も起こらなかった時代
でもあたしには…
「東京ガールズブラボー」の最後に岡崎はそう書いています。彼女の言う通りで、八〇年代は決して何もないスカの時代だったわけではありません。
文化面はさておき、経済という面から考えれば、特に八〇年代前半は日本の「黄金時代」で、日本は世界を席巻していたのです。エレクトロニクスを中心とした日本製品が洪水のように世界市場にあふれ出し、貿易黒字は膨らむ。アメリカもヨーロッパもその品質と価格に太刀打ちできない。彼の地の製造業は打撃を受け、深刻な不況と失業率の増加に苦しみはじめる。
その上アメリカは「冷戦」というお荷物を抱えていました。
ソ連経済の内情は既にずたずたでしたが、それでもまだ戦意を喪失したわけではない。アフガン侵攻(注釈一)やら大韓航空機撃墜(注釈二)やらと、なかなか意気軒昂なところを見せています。
対するアメリカはレーガン時代。
もと西部劇俳優のこの大統領(注釈三)は、ソ連を「悪の帝国」であると公言してはばからず積極的な軍拡競争を仕掛けようとしました。しかし軍拡にはお金が要ります。そのお金をどうやって捻出したらいいのでしょう?
レーガンは奇策を提唱しました。
まず、減税をしよう!(?)経済的にゆとりのできた国民は欲しいものをどんどん買い始め、景気がよくなる。そうすればみんなの所得も増えて、納める税金も多くなる。結果として減税分より更に大きな税収アップとなって返ってくる。これを軍拡に使えばいい…。
レーガン流経済理論、いわゆる「レーガノミックス」です。
実際に減税を実施してみると、確かに国民はバンバンものを買い始めました。ただし、日本からの輸入品を…
「車も、テレビも、日本製。僕たちはどんどん日本人になっていく…」
八〇年代の中頃、アメリカではそんな歌が流行っていたとか。
ひょっとしたらアメリカに追いつけるのではないか?
それどころか追い抜いてしまうのではあるまいか?
そんな「希望」と「畏れ」が日本人の心の内にちらつきだしたのはこの頃です。
八〇年代前半の日本社会に漂っていた何やら満ち足りてふやけたような空気の背後にこうした経済事情が働いていたことは間違いありません。
そして一九六三年に生まれ、十六歳で一九八〇年を迎えた岡崎はそんな空気をたっぷり吸って育った時代の申し子でした。初期作品にも、こうした空気が充満しています。目的を達成してしまった社会の倦怠と弛緩。「退屈が大好き」とか「TAKE IT EASY」といった題名そのものに、当時の岡崎の、そして世の中の、気分が如実に現れている。
しかし、変化の時はやって来ます。
一九八五年、ニューヨークのプラザホテルに顔を揃えた先進五カ国の蔵相(注釈四)は、為替市場に協調介入して人為的に円高ドル安を誘導することを決定。これがいわゆる「プラザ合意」で、結果、一年半足らずの内に、円は、一ドル二四〇円から一五〇円へと一気に急騰しました。円高で日本製品の価格が上がれば、さすがの集中豪雨的輸出にも歯止めがかかるだろうというもくろみです。
何でそんな協定を日本が呑んだのか?
このまま貿易赤字が膨らんでアメリカが破産したら、日本だって市場を失って共倒れになるんだと、さんざん因果を含められたであろうことは想像に難くありません。
子細は省きます。(注釈五)とにかく、協定を遵守するために、日本政府は金利を異常なレベルまで引き下げる。世間ではいわゆる金余り現象が起こり、それが株式市場と不動産投機に流れ込んで行く…バブルです。経済はフル回転。大量のお金が凄まじい勢いで世の中を動き回りますが、それらは最終的に「投機」に使われるだけで、実体ある生産活動には結びつかない。それどころか工場は円高を嫌って東南アジア方面へ移転して行き、産業の空洞化が始まる。景気のいい見かけとは裏腹に、人々は空騒ぎの中で疲弊し、経済の基盤の部分に「歪み」が蓄積されて行く。
「くちびるから散弾銃」や「pink」はそんな時代に描かれたのです。椹木野衣は「くちびる…」を「天国的」と評しました(注釈六)が、はたしてそうでしょうか?
「天国的」という形容はむしろ初期岡崎の「退屈な」世界の方がふさわしい。八〇年代後半になると、彼女の作品は何か微妙に、しかし、それでいながら決定的に、変化し始めています。主人公達はもはや「天国」になど住んではいない。表面的には明るく屈託なく振る舞っているものの、実は、いつもギリギリのところに追いつめられている。
「くちびる…」を見直してみましょう。
椹木はこう書いています。
「彼女たちは、いつ果てることなくものが欲しくなり、そしてまた、実際に買い続けることによってもっと欲しくなっていく」(注釈七)
これはむしろ「地獄」ではないでしょうか?
「くちびる…」はその「地獄」の中で生きるすべを探る物語です。加熱するバブル経済の中でますます掻きたてられ、身を苛み始めるまでに肥大した欲望を大胆に肯定することによって、生きるパワーに変換してゆく試み。実際、僕自身、この物語によってどれほど救われたことでしょう…
しかし「pink」になると変化はますます明白になってくる。
そこにはもう救いはありません。ピンクのバラとワニのために肉体を売りに出すユミちゃんは実は壊れている。よく読んでみればいい。彼女は、今にも崩れてゆきそうになる自分を、ピンクのバラやワニといった小道具で、かろうじて支えていたことが分かります。ワニが消えると、とたんに「あの発作」に襲われるのです。物語の中で直接に語られたことはなかったものの、「あの」とつくからには、これまでも何度も同様の「発作」に襲われていたのでしょう。
ハルオ君の「桜桃賞」受賞という奇跡によって、一旦は「南の島」への脱出という希望が芽生えるかのように見えましたが、これも、最後の土壇場で、あっけなくついえてしまう。あっけらかんとしてクールなスタイルとは裏腹にこの物語の内容は酷いほどに絶望的です。
外見に惑わされてはいけません。「pink」が人々を捉え岡崎の出世作となったのは、おそらく、表面的な経済的繁栄の裏で人々が何となく感じ取っていた不安を見事にえぐり出して見せたからなのだと、僕は信じています。
ある作品を「社会」や「経済」に結びつけて語ろうとすることのカッコ悪さは十分承知しているつもりです。けれども、正直に言って、時代と作品をこのように並べてみたとき、そこには不思議なほど深く自然な形で当時の経済と社会が反映されているように思えてきてしかたがありません。
もちろん、岡崎自身が「意識的」に、経済や社会を描いたり、背景として取り込もうとしていたとは思いません。彼女はおそらく自分の「肉体」の中に蠢く「欲望」をじっと見つめていただけなのでしょう。
「欲望」こそが「生」の根元です。僕たちは誰もが「欲望」を知ってますが、それがどこから来るのかを知らない。おそらく「欲望」は世界の根元から湧いてきて、僕たちを世界に結びつける。そんな「欲望」を見つめることを通して、彼女は無意識のうちに全てを理解し、それを作品として結晶させたのだと僕は考えたい。こうした無意識の働きこそ、創作の神秘だと僕は思う。
岡崎の感覚は鋭く、しかも社会に向かって大きく開かれています。更に驚くのは、その鋭さが決して一つの時代に捕らわれたものではなかったということです。
たいていの人は、たった一つの時代を刻印されていて、なかなかそこから踏み出すことができません。たとえば六〇年代を刻印された人間はいつまで経っても六〇年代の視線で世の中を見続ける。そして時代が変わったことにも気がつかなければ、同じ時代を他の人たちは別な視線で見ているとにも気づかない。
しかし岡崎は違う。八〇年代前半の申し子であったはずの彼女は、八五年のプラザ合意をきっかけに八〇年代そのものが変質を始めたとき、それをはっきりと「知覚」し自ら変身したのです。
そして九〇年代。冷戦が終結するとともにバブルがはじけ、「世界」の仕組みが根元的に変わり始める。すると岡崎は、「東京ガールズブラボー」で、多分もう二度とやってこない僕らの「黄金時代」を、一瞬、懐かしげに振り返ったあと、決然として、更に新しい世界へと足を踏み入れます。「リバーズ・エッジ」以降の作品世界は、八〇年代後半とも違う。岡崎は誰よりも早く、もう後戻りのきかない変化が始まったことを、そして僕たちを待ち受ける闇が深いことを、見抜いていたかのようです…
終わりなき日常を生きろ…
かつて宮台真司はそう言いいました(注釈八)が、その言葉を額面通り受け取ってはいけません。「日常」に「終わりがない」などというのは僕たちを惑わす「幻想」に過ぎない。「昨日」と同じように続く「今日」、「今日」と同じように続く「明日」など、あるはずがない。やがて来る「明日」は「今日」とは似ても似つかぬ何かへと変貌を遂げるでしょう。
そしてまた僕たちを取り巻く「日常」とは、閉じられた小さな空間などではなく、「世界」とつながっている。「世界」の変化は僕たちの「日常」に確実に影響を及ぼし、その上、「世界」は常に変わり続けます。「幻想」を取り去れば、僕たちははじめからその常に変転を続ける「世界」に放り出されている。そうした「リアル」に目覚めることこそ、今の僕たちに何よりも必要とされていることなのです。
信じられない?
でも本当のことです。
岡崎京子は、そのことを知っていました。
さあ、今こそ彼女を読み返しましょう…
長ったらしいあとがき、或いは蛇足
(気が向いたら読んでみてください)
「岡崎京子研究読本 オカザキズム」(太陽出版2002.08.25刊、ただし実際には7月末より店頭に並んでいたらしい)のために書き下ろした岡崎論です。「岡崎は、社会に向かって開かれた作家で、時代と共に生きている。実際彼女の作品は時代とのつながり抜きには語れない」と、編集の方に向かってわめいたところ、「じゃあ、それ、原稿用紙5枚で書いてください」とあっさり言われて慌てました。昔、東京は東高円寺の駅前に新築された何の変哲もない1kのマンションが1億7千万円で売りに出されているのを見て腰を抜かしたこと、そんな時代の唯一の心の慰めが岡崎京子の作品であったこと、等々の「個人的体験」を手がかりにして書き始めようとしたものの、とたんに、5枚では絶対に足りないことに気がつきました。まず、1億7千万円の1kマンション(=バブル時代)とは何を意味していたのかを説明しなくてはいけない。頼み込んで10枚に増やしてもらったものの、結局、「個人的体験」まではたどり着けませんでした。それでも、「時代」と「岡崎作品」のつながりを、幾分なりとも示すことが出来たのではないかと思うのですが、如何でしょう?
特に、「バブル」の時代を「社会人」として体験したことのない世代の方たちに、「岡崎作品」が生まれてきた「時代」と「社会」の背景を少しでも感じていただけたら、これに勝る幸いはありません。僕自身は、岡崎作品を「漫画」という枠内だけに限定して語ることに対して常々反対の立場を唱えてきました。繰り返します。岡崎は「社会に向かって開かれた作家」です。本当はどんな作家だって何らかの意味では「社会に向かって開かれた作家」なのですが、岡崎の場合は特に、そうした側面を意識しながら読むと、作品の中から思いがけないほど豊かなものをくみ取ることが出来るのだと、僕は信じているのです…(2002.08.17)
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