GIRLS AT OUR BEST

岡崎京子「GIRLS AT OUR BEST」

或いは「東京おとなクラブ」創刊第2号における岡崎京子とのファースト・コンタクト




今となっては遠い昔、恐らく1982年の夏頃、東京は銀座の福屋書店の雑誌売場で不思議な小冊子を見つけた。
「東京大人クラブ」の創刊号、今で言うところのサブカル系ミニコミの走りのようなものだろうか?
当時好きだった吾妻ひでおやひさうちみちおの名前にひかれて購入したのだけど、実際に読んでみてその内容の意外な面白さに驚いた。

創刊第二号が発行されたのは翌年1983年の3月。
創刊号が面白かったことを覚えていたぼくは早速手に入れて、そこで初めて岡崎京子の作品を読んだのだ。

必ずしも印象に残る作品ではなかった。
それどころか、この「最初の接触」は、それから十五年間も記憶の底に埋もれ続けることになる…

ところが、つい数日前のこと。
星野仁氏のホームページに公開されている作品リストを何気なく眺めていると、「東京おとなクラブ」の名前が目に飛び込んできたではないか。
ビックリした。
早速、本棚の片隅から現物を取り出して確認してみると、確かに岡崎京子作の「GIRLS AT OUR BEST」なる小品が掲載されている。
しかし、当然ながら、十五年前にこれを読んだという記憶は無かった。

当時の記憶が思いもかけず甦ったのは、編集後記を読んだときだった。
「岡崎京子女史には早々と作品を描き下ろして頂いていたが、編集者の一存で『VIEWY』誌に描いたものを転載した」という断り書きだ。(【脚注1】参照)
編集後記のそこだけ、ゴシック体の黒々とした活字で印刷されている。
十五年前、ぼくはそのことが妙に気にかかったのだ。そもそも岡崎京子女史とは何者だろう? 大体そんな人が何か描いていたろうか? 不審に思って雑誌をめくり返し、編集後記の直前に七ページほどの殴り書きのようなコミックを見つけた。

何ということもない作品だ。
女子高校生の主人公が、便所掃除をして、クラスで友人が語る初体験談に耳を傾け、井の頭線の中で親友とダベり、ビールを飲むために自転車の二人乗りをし、警官に見つかって一目散に逃げて行く。
イラストに台詞を書き込んだだけの断片。
よく言えば自由奔放。
絵は、若さにまかせた殴り書きで、当時のぼくの目には奥平イラ(「モダン・ラヴァーズ」けいせい出版1980.11.10、「地図と記号」JICC出版局1982.12.15)のパクリのようにも見えた。
若いな、突っ張ってるな、ただそれだけのことだ。決して長続きのするタイプではない。

ただそれだけに過ぎないツッパリが何で、ゴシック体で岡崎京子女史と呼ばれるのか?
よく分からないが何か変だった。(【脚注2】参照)
しかしまぁ、要するにそれだけのこと。

それから7年後の1990年、ぼくは「PINK」に出会うことになる。
しかしその頃までには「東京おとなクラブ」の「岡崎京子女史」のことなどすっかり忘れていた。
それだけでなく、それから更に8年間、全く思い出すこともなかったのだ。


岡崎京子は1963年12月生まれだから、1983年当時は十九歳。
まだ短大生だったはずだ。
プロの雑誌デビューは84年で、第一作品集の「ヴァージン」が出たのは85年だと言うから、ぼくは偶然にも、デビュー前の彼女の作品を目にしていたことになる。

後に自分にとって非常に重要な存在となる作家なのに、最初の出会いで何とも思わなかったとは、とても不思議なことに思えてしかたがない。
と言うよりも、岡崎京子自身が、「GIRLS AT OUR BEST」から始まって、「PINK」を経、「リバーズ・エッジ」に辿り着く過程で、大きく変貌したと言うことなのかもしれない。
実際、初期のイラスト詩のような断片を書き散らしていた作家が、最後に「リバーズ・エッジ」のような作品を書き上げたと言うことは、何か信じられないようなことだ。
(19980819新規追加)



【脚注1】
『VIEWY』誌は武蔵美の学生同人誌。1982年9月刊。投稿雑誌『ポンプ』を見た学生が岡崎に原稿を依頼。当時岡崎も短大1年生の18歳。岡崎にとって「原稿用紙にコマを割って描いた二作目のマンガ」だったという。因みに第一作は1979年高校1年生15歳の夏休みに白泉社『花とゆめ』まんがスクール投稿用に描いた16枚。結果はCクラス認定で鈴木光明少女マンガ教室へのお誘いが来た由。(ソース:ばるぼら『岡崎京子の研究』アスペクト2012.07.23刊P.10及びP.16)(2021.06.30追加)

【脚注2】
実は、当時、「東京おとなクラブ」のスタッフであった中森明夫に迫られ、袖にしたという噂があった由。そうした背景の反映かもしれない。真偽の知れないゴシップであるが、面白い(京子ちゃんカッコイイ)のでここに追記。尚、ソースはこちら→「岡崎京子のバージンください」(「スタジオ・ボイス」1985年11月号インタビュー) (20000116追加)
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ついでの話。この「東京おとなクラブ」の編集発行人「エンドウユイチ」は誰あろう、後の「月刊アスキー」編集長遠藤諭。アングラ・サブカル系ミニコミ誌(本人はカルトマガジンと称している)編集人が後に超メジャーなパソコン雑誌の編集長になったというのは何だか俄に信じがたい話のような気がするが、本人が書いていた(2000年2月5日朝日新聞夕刊コラム「遠藤諭の電脳術」)から間違いない。遠藤諭、偉い!(2000.02.06追加)



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