緑の日々



byドミ



(4)逆襲開始



 ホテルの大広間では、パーティがとっくに終わり、園子達は、鈴木家が年間通して借り切っている会議室で、様々な事を語り合っていた。
 その場に居るのは、園子、変装してウェイターウェイトレスに扮していた真・平次・和葉、マジシャンとしてパーティに招待された快斗、その助手として潜り込んだ青子。総勢六人である。

 園子は、新一と連絡を取るようになってから、快斗や青子とも顔を合わせ、江戸川コナンが工藤新一の仮の姿であった事も、怪盗キッドの正体と目的も、知らされていた。真も、園子と共に話を聞いた。
 ここに居るメンバーは、既にある程度「仲間」という感覚が生まれていたのである。

「ふわああああ。青子、眠くなってきちゃった……」
「園子さん、そろそろ客室の方で就寝した方が……」
「あの二人、もしかしたらこうなるかもと思ってたけど、出て来そうにないわね」
「オレ、様子を見に行こうか?」
「黒羽。止めといた方が身の為やで」

 と、その時、会議室の内線電話が鳴った。(勿論盗聴などされてないかは、事前に厳重チェックがしてある)

「ハイ。新一君?分かった、すぐ行くわ」

 電話に出た園子が、皆に告げた。
「新一君から私達皆に、話があるそうよ」


   ☆☆☆


 新一は、スイートルームの応接室の方で皆を出迎えた。

「新一君、蘭は?」
「ああ、色々と話をしたよ。今は、隣のベッドルームでやすんでる」

 新一の言葉を聞いて、皆、心もち視線を彷徨わせて顔を赤らめていた。
 新一の眼差しが今迄になく穏やかであり。蘭が新一にとってどれ程大きな存在であるのか、皆、改めて感じ取っていたのである。

「で?新一君、分かった事話してくれる?」
「ああ」

 蘭自身が、裏事情を全部分かっている訳ではなかったので、新一が今迄得た情報は断片的な部分が多いが、それでも新一は、今回の「事件」の概要を、ある程度掴んでいた。

「谷中政春という男、テクノロジー関係にはそれなりに長けた男であるのは間違いない。元々技術がある上に、崩壊した黒の組織から得たデータを使ってベンチャー企業を立ち上げた。他とは一線を画した技術力でテクノ谷中は急成長し、経営は順調だ。
 その谷中が、どういう機会でか、蘭を知って、恋に落ちた。その後、ストーカーまがいの事をやって蘭の情報を得たんだろう。そして谷中は、蘭の恋人がオレ・工藤新一であるという事を知った。で、ヤツは、蘭を手中にする為に、策を練った。
 それは、単純なペテン。蘭に……オレの命は谷中の手中にあると思い込ませ、蘭がヤツのものにならなければ、オレの頭に仕掛けてある爆弾の起爆装置を押すという脅迫を、行っていたんだ」

 一同は顔色を変えた。特に園子は蒼白となった。

「誰かに打ち明けて相談しようにも、毛利邸にも蘭の持ち物にも盗聴器が仕掛けられていて、どうしようもなかったんだ。蘭は……オレを守る為に、谷中の妻となり身を任せる決意をした。未成年者は婚姻届を出すには親の許可が必要だから、おっちゃん達の承諾を得る為に、谷中の子を宿しているという嘘までついて」

 園子と青子と和葉が、顔色を変えて顔を見合わせる。
 女性同士、好きでもない男に身を任せるのが、どれ程に苦痛で屈辱であるものか、想像がつくのだろう。蘭の心痛を思ってか、青子が声を上げて泣き出した。

「新一君!蘭が泣いたのは、結局、あんたの所為なんじゃない!」

 園子が掴みかからんばかりにして新一に迫った。

「間違えるなや、鈴木の姉ちゃん」

 やや低めの冷たい声で言い放ったのは、平次である。

「憎む相手を、恨みの矛先を、間違えなや。そん谷中っちゅう男は、姉ちゃんを欲しがっとった。手に入れる為に利用したんが、たまたま工藤になっただけや。場合によっては、鈴木の姉ちゃん、使われたんは、あんたやったんかも知れんのやで?」
「うん、青子も同感だよ。蘭ちゃんだったらきっと、人質が園子ちゃんでも、他の誰かでも、同じ事したって思う」
「ま、たまたま工藤がアメリカに行ってて蘭ちゃんの傍に居なくて。谷中はテクノロジーのエキスパートだから工藤の入院先のカルテを手に入れる事も可能で、状況的にやり易かったって事だな」

 園子は、目を瞑ってふうと大きく息を吐き出した。

「そうね。頭に血が上ってたわ、ごめん」
「私としては、少しばかり妬けますが。蘭さんの為にそこまで熱くなれるのが、園子さんの良いところですから」

 真が園子の肩に手を置いて言って、園子がはにかんだように微笑んだ。

「そうね。わたしも、真さんでも蘭でも、人質に取られたらきっと、何でもしようとするんだろうな。でもま、その谷中の脅迫は嘘だった。で、蘭はようやくそれに気付いたって事よね」
「せやけど、蘭ちゃん、もしかしてもう、その谷中っちゅうヤツに貞操を……?」

 和葉が、言いにくそうに切り出した。

「ああ、その点は大丈夫だよ、和葉ちゃん」
「断言するわね、新一君。それはもう、さっき確認済みな訳?」
「ああ、まあな」

 新一の短い返事に、誰もそれ以上突っ込む気力はなく、ますます顔を赤らめるだけだった。

「谷中が、妙な美意識を持っていたのも幸いしたが、蘭も『結婚式の夜までは』と拒み続けていた。オレに仕掛けられている爆弾の遠隔操作装置みたいなのを発見しスイッチを解除する為には、一緒に住まねえと無理だと考えていたみてえだな。蘭は、その日に備えてこんなものまで持ってたぜ」

 そう言って新一が取り出したのは、薬のシートで。
 二十八錠一シートになっているが、同じシートの中で、大きさや色が何種類かあった。

「え?これって……?」
「合成エストロゲン・プロゲステロン製剤」
「って何?」
「卵胞ホルモン・黄体ホルモンやな。ちゅう事は、経口避妊薬なんか!?」
「そうだ。蘭は、谷中の子供を絶対産みたくねえからって、婦人科にかかってこれを準備していた。もっとも、高校生にピルを処方してくれる病院を探すのも大変だったらしいが」
「蘭ちゃん……そんなにしてまで……」
「そこまで、覚悟決めとったんやね」

 新一が、一旦目を閉じ、再び目を開けて言った。

「何とか無事、蘭を取り戻す事は出来たが。谷中の犯罪を暴くには、証拠が足りねえ。けどオレは何としても、ヤツのやった事全てを暴いて、監獄に叩き込んでやる!」

 その瞬間。
 そこに居た一同は皆、工藤新一が曲がりなりにも正義の味方で良かったと、胸を撫で下ろした。言葉も荒げていない、静かな口調なのに。その声音の冷たさと底光りする瞳に、思わず背筋に震えが走ったのである。
 蘭に手を出す事は、工藤新一の逆鱗に触れる事。谷中という男は、とんでもない相手に手を出してしまったのだと、そこに居た一同は思っていた。

「新一君。今回の件では、わたしも全面的に協力するわよ。蘭に脅しをかけて我が物にしようなんて、絶対許せないわ!」
「そうだね。蘭ちゃんって、自分の事だったら脅しに屈するような人じゃない。優しいところにつけ込んだ汚いやり方、許せないよ!」
「うんうん、あないに工藤君の事を想い続けとった一途な蘭ちゃんの気持ち利用したんは、許せへん!工藤君が帰って来てやっと幸せになろういう時やったんに」
「愛しい女性をそういった卑怯な手で奪おうとは、男子の風上にもおけませんね」
「全面的に同感。女性に関しては、正々堂々正面から行かなきゃな」
「せやな。工藤、オレ等も協力するで。そん男の腐った根性、叩き直したるわ!」

 全員が、新一を真剣な目で見た。新一が大きく頷いた。


   ☆☆☆


 蘭が、目を覚ました時。
 一瞬状況が分からなかった。見知らぬ部屋で目が覚め、次いでここがホテルの部屋である事を思い出す。
 蘭はホテルの浴衣を身につけていたし、ベッドの隣には誰も寝た形跡が無く、ぬくもりもなく冷えていた。

「わたし、新一と……一緒だった筈なのに……やっぱりあれは、わたしの願望が見せた、夢……だったの……?」

 蘭の頬を熱い涙が転がり落ちた。
 新一と熱くひとつに解け合ったあの時間が、全て夢幻だったのかと絶望し、手を握り締めた。

「おはよう、蘭」

 ドアを開けて顔を覗かせたのは、蘭の一番の親友である。

「園子……」
「ええ?蘭、泣いてるの!?どうしたの!?」
「何でもないの、とても幸せな夢を、見ちゃって……」

 園子が大きく溜め息をついた。

「蘭。それって多分、夢じゃないと思うよ」
「え?」

 蘭は、ベッドから降りようとして、足が立たずに、床に転がり落ちた。
 下腹部に鈍い痛みがあり、両大腿部が強張っている。浴衣の隙間からのぞく胸元には、赤い痣のような痕がいくつも残っていた。
 そして、動いた拍子に、蘭の中から何かが流れ出る感覚があった。新一と愛し合った時の名残、二人の体液が混じり合ったものに間違いなかった。

「ったく。だから、蘭が目覚めるまで傍についててやれって言ったのに、あの男は!」
「……夢じゃなかったの?新一、ここに居たのね……」
「夢や幻が、蘭の体に印をつけるのは無理だと思うけど?」

 園子の言葉に、蘭は真っ赤になった。

「ま、心配しなくても、今回はすぐにまた会えるよ。愛しの旦那から、手紙、預かってるから」
「ななな!新一は、そんなんじゃ!」

 蘭の言葉に園子はプーッと噴出した。

「あっははは、以前の蘭が戻って来たわね!でもさ、蘭。新一君って、昨夜本当に蘭の『旦那』になったんじゃ、ないの?」

 園子に言われて、蘭は小さく「あ」と言って、再び真っ赤になった。
 蘭は園子に手渡された手紙に目を通した。


「蘭へ
 蘭の寝顔が可愛くて後ろ髪引かれる想いだったけど、急ぎ調べたい事があるので出かける。今回はすぐに帰って来っから。留守の間、浮気すんなよ、奥さん。 新一」


 あまりに歯の浮くような言葉に、蘭は頭から湯気が出そうだった。新一は一体、どんな顔をしてこれを書いたのだろう?「奥さん」の一言に、「気障」と毒づきながら、蘭の胸が甘くキュンとなった。

「蘭、ここはスイートだから、朝ご飯も届けて貰うように頼んでるよ。腹ごしらえしながら、色々話をしよう?」

 蘭が続き間の方に移動すると、そこには青子と和葉も待っていた。男性陣の姿は見えない。新一と共に居るのか、気を利かせて女性だけにしたのか、両方なのか。

「蘭ちゃん、おはよう」
「おはよ、よう眠れた?」
「おはよう、青子ちゃん、和葉ちゃん。……ありがとう、ごめんね。みんな、わたしの事心配してくれてたんだね……」
「そんな、水臭いよ、蘭ちゃん」
「せやで、アタシら友達やん」

 蘭の頬を、新たな涙が流れ落ちた。
 蘭が久し振りに迎えた、明るく幸せに満ちた朝だった。


   ☆☆☆


 蘭が顔を洗って着替えると、女性四人でテーブルを囲んで、朝食を摂った。

「もう、九時?ごめんね、寝坊しちゃって……」
「いいっていいって。蘭、暫く眠れてなかったんじゃないの?いくら蘭が、一旦寝付いたら簡単に目が覚めないっても、昨夜は、わたし達がここに来て色々話をしたのにも気付かない位、グッスリだったじゃない」
「安心してよう眠れたんちゃう?」
「うん、工藤君とようやく気持ちが通じ合ったんだしね」
「そうだね……それに、多分……」

 小さな頃を除けば、生まれて初めて、新一の温もりに包まれて寝たから。だから、本当に安心出来たのだと蘭は思う。

「もしかして、工藤君とエッチしたから?」
「せやね、だから幸せでよう眠れたん?」
「そ、そ……なっ!」

 蘭は真っ赤になって何も言えず、三人はからかうような顔つきで、けれど優しい眼差しで、そんな蘭を見ていた。

 男女のそういう行為は、蘭が思い描いていたものとは随分異なっていたが、他ならぬ新一に抱かれたという事、初めての相手が新一であった事は、これ以上にない位幸せだった。
 初めての痛みも羞恥心も、実際のセックスの生々しさも、新一がもたらすものならば、全てが甘く彩られている。

「……園子、青子ちゃん、和葉ちゃん。わたしね、わたしの心も、わたしの苦しみも、わたしの真実も、知っているのは、分かっているのは、わたしだけだって……すっごく傲慢な事、考えてたって思う。みんなが、こんなに心配してくれていたのにね」
「蘭、そんな事……だって、言いたくても何も言えなかったんでしょ?」
「蘭ちゃん、自分を責めないでよ。だって蘭ちゃん、谷中って人に、騙されてたんだから」
「せや、悪いんは、その谷中ってヤツや。蘭ちゃんは何も悪い事あらへんって」
「みんな……」
「蘭が本当は今でも新一君の事好きだって事も、何か大きな隠し事してるって事も、わかっては居たんだけど、残念ながらわたしには何も出来なかった。悔しいけど、やっぱそれをどうにか出来るのって、アヤツしかいないんだよね」
「園子……」


「ねえねえ、ところで工藤君、手紙に何て書いてたの?」

 青子が、身を乗り出して訊いて来た。

「え?別に、大した事は……どうしても出かけなくちゃいけないって、でもすぐ戻るって……」
「それだけ?」
「そ、それだけよ。後は、別に……」

 園子も和葉も青子も、疑わしげな目付きで蘭を見た。
 その時。

「ただいま、蘭」
「新一!?」

 何と、当の新一が、ドアを開けて入って来たのである。
 新一に続いて平次・快斗・真も居たのだが、蘭の目には勿論、新一しか入っていなかった。
 蘭は小走りに新一を出迎え、新一は蘭を強く抱き締めて、熱い口付けを交し合った。

「流石、新婚さん」
「目の毒やなあ」
「……」
「蘭ちゃん達、アツアツね〜」
「ホンマ、目のやり場に困るわ」
「ま、大目に見ましょ。やっと、こうなれたんだし」

 六人のぼやきも、新一と蘭の耳には全く入っていない。

「新一……暫く出かけるんじゃなかったの?」

 ようやくお互いの唇を放したところで、蘭が尋ねた。

「今回はすぐ帰るって、手紙に書いといただろ?」
「じゃあ、あの、浮気すんなってどういう意味よ?浮気する暇なんてある訳ないじゃない!」

 蘭は照れ隠しにちょっと怒った声で言った。新一が気まずそうに頬を掻きながら、返す。

「あ、いやまあ、それはその……」

 突然快斗と平次がお腹を抱えて笑い出した。

「ぶはっはっは、蘭ちゃん、許してやんなよ。本当だったら帰る暇なかった筈だったのにさ、工藤ってば、どうしても蘭ちゃんに会いに帰るって聞かなくて……」
「せやせや、ホンマやったらまだ色々、仕掛けせなアカンかったんやけどな。手紙書いた時は今日中には戻れん予定やったんや、ま、勘弁したってくれへんか?」

 蘭が驚いて新一を見ると、新一は真っ赤になっていた。

「じゃあ、またすぐ行かなくちゃいけない訳?」
「いや、一応ひと段落させてきましたから、後は夕方からでも」

 園子の問いに答えたのは真だった。


   ☆☆☆


 男性陣も交えて総勢八人は、コーヒーを飲みながら色々な話をした。

「わたし、もう、あの人の顔を見るのも嫌。時間を割くのも嫌なの」

 谷中の企みにまだ気付かない振りを続けた方が良いという提言に対して、蘭はそう返した。

「わたしはまだあの人には、キスだって許してないけど。それでも、二人で会ったりするだけで、わたしは……」

 そう言って身を震わせた蘭を、新一がしっかり抱き締める。
 見ている者達は赤面したが、蘭の気持ちをおもんばかり、蘭にそれが必要だと分かっていたので、誰も突っ込みはしなかった。

「オレも、蘭にこれ以上つれー思いをさせられねえ。これ以上片時でも、蘭をヤツと一緒に過ごさせたくはねえ」
「工藤、甘いで。ヤツの犯罪を暴いて追い詰めるんは、姉ちゃんに芝居をうって貰わん事には、難しい思うで」
「平次、せやけど、蘭ちゃんにこれ以上辛い思いさせられへん」
「う〜ん、ヤツに尻尾を出させる為には、蘭ちゃんが騙されてる振りを続けた方が良いのは確かだけど、蘭ちゃんにそういったお芝居を続けさせるのは無理じゃねえか?」
「うん、あんまり酷な事だって思うよ」

「あら。蘭本人に無理させなくても、ここには、変装とお芝居のエキスパートが居るじゃない」

 園子の鶴の一声に。
 皆の視線が、快斗に集中した。

「あー、なるほどな。その手があったか。」
「グッドアイディアやな、鈴木の姉ちゃん」

「おいおい!何でオレが、中年男とデートしなきゃなんねえんだよ!」

 流石に快斗が憮然としたように言った。

「快斗ぉ。蘭ちゃんの為に、お願い」

 青子が目を潤ませて、快斗を上目遣いで見ておねだりする。

「……オメー、それ無意識でやってんなら、犯罪だぞ」
「え?青子のどこが?」
「ま、いいや。青子の頼みだ、一肌脱いでやるよ」

 快斗は溜め息をつきながら両手を挙げ降参のポーズをした。

「黒羽、恩に着るぜ」
「るせえ。この貸しは高くつくからな、名探偵」
「黒羽君、ありがとう……」
「礼なら、青子に言ってくれ。ったく、誰かさんと良く似た顔で涙ぐまれっと、調子狂うぜ」

 快斗は苦笑いしたが、一度腹を決めたらそれを覆すような男ではない。

 幸いと言って良いのかどうか、ここに居るメンバーで、大学受験を控えているのは新一だけだ。
 平次と和葉は、園子や蘭と同じく推薦で大学が決まっていたし、真は既に大学生。快斗と青子は、アメリカ留学を決めていた。だから彼らには、活動する時間は充分にあったのである。

 今後の方針は決まった。三月、谷中と蘭の結婚式が行われる筈の日に焦点を合わせて、それぞれに活動を始めた。


   ☆☆☆


「工藤君!蘭さんが、他の人と結婚するって、どういう事!?」

 新一が蘭と結ばれてから間もなくの事。
 突然工藤邸に駆け込んで来た志保が叫んだが。リビングのドアを開けた途端、ソファーで蘭を抱き締めて口付けしている新一の姿に遭遇し、固まった。

「あ、ご、ごめんなさい……邪魔する積りじゃ……」

 志保は流石に赤くなって、背を向けて出て行こうとしたが。

「宮野、入れよ。色々オメーに相談してえ事もあるしさ」

 新一にそう言われ、志保は一回大きく息をついて、中に入って来た。
 蘭が赤くなってそそくさと立ち上がり、キッチンの方に消えた。ほどなくコーヒーの良い香りが漂って来たので、蘭がコーヒーを淹れているのだと分かる。
 志保は、新一の向かい側のソファーに座りながら、キッチンの方をちらりと見て、言った。

「彼女、すっかり工藤邸の主婦になっちゃってるじゃない。一体、あの話は何だった訳?心配して飛んで来て、損した気分」
「オメー、アメリカに居んじゃなかったのかよ?」
「とんでもない話を聞いて、ビックリして飛んで来たに決まってるじゃない。ま、無駄足だったようだけど」
「情報の出どこは、博士だろ?」
「そうよ。あの人がそんな悪質な冗談を言うとも思えないんだけどね」
「ああ、そうだな。冗談なんかじゃなく、つい数日前までは、オメーの得た情報は間違いじゃなかったんだ。博士にも、状況が変わった事、封書で連絡したんだがな」
「封書で?博士が、そんなものまともに管理出来ない事位、工藤君だって分かってるでしょ?」
「わりぃ。電子メールや電話での連絡は、危険を伴うと思ったんだよ。一応博士には、口頭でも事情の説明はしてるんだけどな」

 それまで、不貞腐れた顔をしていた志保の表情が、真顔になった。

「そう言えば、さっき博士も『これには色々事情が、志保君、落ち着いてくれ』とか何とか、言ってたわね。もしかして盗聴の可能性があるから、曖昧な言い方してた訳かしら」
「だろうな。多分阿笠邸は大丈夫だと思うんだが」
「で?どういう事なの?」

 新一は、この間の経過と今迄に知りえた事を、詳しく志保に話した。
 コーヒーを淹れ終わった蘭が、リビングに戻って来て、自然な動作で新一の隣に腰掛ける。そして、新一が志保に説明するのを、黙って聞いていた。
 蘭は、志保が黒の組織に属する科学者であった事も、新一と同じく薬で小さくなり、灰原哀となっていた事も、既に知っている様子だった。

 志保は、戦いが終わった後、阿笠博士の養女になったのだが、新一は今でも志保の事を「宮野」と呼んでいる。そして志保は、アポトキシン4869の件や、様々な理由で、暫くアメリカに滞在してFBIに協力しているのだった。

「谷中政春?聞いた事はあるけど、その男は……」

 志保は考え込んでいたが、首を横に振った。

「駄目、思い出せないわ」
「こいつなんだけど」

 そう言って新一が写真を見せ、志保は目を見張った。

「この男!名前は谷中なんかじゃないわ!この男の名前は只野(ただの)、コードネームはラム、私と同じく組織の科学者よ!」
「何だって!?」
「ラムは確か、電子工学が専門だった筈。でも、私の知っているラムは、もっと……老けていたような気がするのよね」
「……けど、コイツは、蘭との『正式な結婚』に拘っていた、それが歳を誤魔化し偽名を使うというのは!?」
「思い出したわ。『谷中政春』っていうのは、確か、身寄りが居ない組織の犠牲者の一人よ。遺骸も残さず抹殺されてしまって、誰も探しもしないし届けもしないから、おそらくは、戸籍上死んだ事になってないのではないかしら?」
「……って事は、つまり……?」
「只野は、谷中の戸籍を乗っ取って、組織とは無関係の人間として新たな人生を歩もうとしているのかも」
「そして、その新たな偽りの人生で、蘭を傍に置こうと……」
「考えられるわね」

 蘭が大きく息をついて、身を震わせた。新一が蘭の肩を抱き寄せる。

「蘭、大丈夫だから。そいつの名が谷中だろうと只野だろうと、オメーにはぜってー、指一本触れさせねえから」

 熱く囁くと、新一は蘭の唇を自分のそれで塞いだ。

「……熱いわね」
「あ、や、その、これは……」

 志保の冷静な突っ込みに、しどろもどろに言い訳しようとする新一だったが。志保は皮肉気な口調に反して、柔らかい眼差しで二人を見て言った。

「別に、構わないわよ。蘭さんがそれだけ辛い思いをして心が傷付いてるって事でしょ?工藤君が人目も憚らずに蘭さんにベタベタするのは、蘭さんの恐怖感を和らげる為よね」
「え?新一、そうだったの?」

 蘭が驚いたように新一を見た。

「地もあるかとは思うわよ、蘭さん。長い間片思いで我慢していた分、遠慮がなくなったって面がね。でも、流石に工藤君だって、普通なら時と場合は考えるだろうと思うのよ。でも、今の彼は、蘭さんの恐怖感とトラウマを取り除くのが、何より最優先みたいね」
「……参ったな。お見通しかよ」
「工藤君の事だから、そういった気遣いを蘭さんに知られたくなかったんでしょうけど……」
「ええ?どうして!?」
「だって、蘭さんは、誰かが自分の為に気を使っているって感じたら、すごく申し訳なく思うでしょ、違う?」
「……そうかな……そうかも……」
「でも、蘭さんはきっと、工藤君のそういった気遣いを知ったら、申し訳なくも思うだろうけど、それ以上に嬉しいでしょ?」

 蘭がこっくりと頷いた。

「うん、わたしね、今回色々な人に心配かけて、申し訳なかったって思ったけど。それ以上に、皆の気持ちがすごく嬉しかったの。勿論、新一の気持ちもよ。わたしが犠牲になれば、なんて事考えてちゃいけなかったんだって、ようやく分かったし」
「蘭……」
「まあ、あなた達二人に関しては心配なさそうね、良かった。それにしても、工藤君のカルテデータが流出した件、まさかそういった目的に使われていたとはね」
「今回、それが分かって良かったとも言えるぜ。でねえと、いつ何時それがどういう風に悪用されるか、ずっと気にしてなきゃなんねえからな」
「で?どうする積りなの?」
「ヤツの犯罪は暴かなきゃなんねえと思っていたが。殺した相手の戸籍を乗っ取っているとしたら、その罪はオレが思っていた以上に重い。ヤツに気付かれないように動いて、その犯罪を全て暴いて、監獄に叩き込む!」
「そう。ま、里帰りしたついでだし、私も出来る事があれば協力するわ」
「サンキュー」
「あら。素直な工藤君なんて、気持ち悪いわ。どういう風の吹き回し?」
「今回、色んな奴等に助けられてっからな。少年探偵団の三人も、動いてくれたし」

 志保は、目を大きく見開く。

「工藤君。あなた、あの子達に全てを?」
「いや。まだ、コナンと灰原の件については、話をしていない」

 志保は、キッと睨むような眼差しで新一を見た。

「あなた、歩美ちゃんの気持ち、知ってるんでしょ?どうする積りなの?」
「そこなんだが。なあ、灰原。江戸川コナンは、歩美ちゃんの気持ちに応える事は出来ねえ。けど、このままだと、もしかして歩美ちゃんは、希望を持ったまま、コナンを待ち続けちまうんじゃねえかと心配なんだ。
 傷付けたくはねえけど、下手に期待させたら将来もっと傷付く事になりかねねえと思う。なあ、どうしたら良い?」
「……そんな事。私に分かる訳、ないでしょう?」

 蘭が息を呑んで、膝の上で手をグッと握り締めた。

「歩美ちゃんね、わたしの所に来たの。コナン君は、わたしの事が好きなのに、わたしは新一の事が好きだって知ってたから、諦めたんだって。それなのにわたしは、もう新一の事、愛してないのかって。問い質されたわ……」
「歩美ちゃんは、蘭が嘘をついているって言ってたな。あいつの真剣な気持ちには、真剣に向き合うべきだって思う。だからオレは……あいつ等がいつかもう少し大人になった時、それでもコナンの事を忘れていなかったら、その時は、すべて話をする積りだ」
「新一……」
「工藤君……」
「ただ、歩美ちゃんにその時まで期待をさせちまうかも知れないのもなあ。自然に恋心が思い出になってくれれば問題ねえんだけど、松本先生と言い、阿笠博士と言い、幼い頃の想いをそのまま抱え続けるやつも多いからなあ……」
「工藤君、やっぱりここは、悪者になってもきちんと振ってあげるべきだと思うわ。失恋は辛いものだけど、世の中には沢山、どうしようもない事ってのがあるんだから」
「だな。だけど、どうすれば……」

 志保は暫く、天井の方を向いて考え込んだ。

「面と向かう事は無理だけど、電話でなら話せるでしょ?」
「……その手があったか。コナンの時に新一の声を作った変声機を、今度は、コナンの声を作る為に使うんだな」
「まずは、手紙でも書いたら?江戸川君から歩美ちゃんに」
「……そうだな。そうするよ。蘭、手紙の文章作るの、手伝ってくれるか?」

 蘭が、涙ぐみながら頷いた。

 人を愛する時も、愛される時も、心ならずも他人を傷付けてしまう事がある。その事実から逃げずに向き合い礼を尽くす事が、せめてもの誠意だろうと、新一も蘭も思っていた。




(5)に続く

++++++++++++++++++++++++


<後書き>

志保さんも登場して、「蘭姉ちゃんを守り隊」は、ますます大所帯になって行きます。
そして新蘭は、それまで辛い思いをしていた分、ラブラブイチャイチャです。

ここら辺は、書いている私も、ようやく胸のつかえが取れて、楽しく書き進める事が出来ました。

さて、お気付きでしょうか、このお話の新一君は、蘭ちゃんとの初夜に避妊をしていません。
いや、そこまでする積りはなかったので準備してなかったんですけど、それに加え「蘭ちゃんが身籠っている」と思い込んでの行為だったので、その必要があるとは思ってなかったんですね。

実は、当初の構想では、この時蘭ちゃんがご懐妊、ってのを考えていたのですが、それはボツにしました。
やっぱりこの話での新蘭には、「出来ちゃった婚」はさせたくなかったんで。

そして、谷中包囲網では、変装の名人であったばかりに、快斗君に一番可哀想な役回りを振っています。
いえ、決して、苛める為ではありませんよ。本当ですってば。



(3)「絆」に戻る。  (5)「偽りの花嫁」に続く。