緑の日々



byドミ



(1)絶望の日々



「犯人は、あなたです!」

 新一は迷いなく、一人の人物を指差した。
 新一の鋭い眼光に、指差された相手は蛇に睨まれた蛙のように縮み上がり、それでも、「証拠がない」「日本警察の救世主が聞いて呆れる」など、ブツブツと文句を言った。
 新一はふっと微笑む。その微笑みは、とても心が和むようなものではなく、見る者の背筋を冷たく凍らせるものだった。

「証拠、ですか?それは、今もあなたが身に着けていますよ……あなたはそうと気付いていませんがね」

 そうして新一は、容赦なく犯罪を暴いていく。逃げられないと悟った相手は、ガックリと膝を着いてうな垂れた。その手には手錠がかけられ、連行されて行った。


「流石は工藤君ですね」

 感心したようにそう言いながら、顔色が冴えないのは、警視著捜査一課の、高木渉刑事である。

「ああ……そうだな……」

 頷きながら、やはり顔色が冴えないのは、同じく警視庁捜査一課の目暮警部である。
 新一を昔から知っている二人は、今の新一が、昔と同じく推理は冴え渡り、正義感と人としての情は失っていないものの、非常に脆く危うい存在に感じてならず、心配だったのである。

 かつての高校生探偵工藤新一は、一年以上のブランクを経て、今、再び「日本警察の救世主」となっていた。
 彼は、いまだ十八歳、普通であれば高校生であろう。しかし新一は既に、アメリカのハイスクールをスキップして卒業していた。日本に戻った彼は大学受験予定であるが、現在は学生ではなく宙ぶらりんの状態であった。

 彼の推理はますます冴え渡り、その正義感は疑うべくもないのだが。誰言うともなく今や工藤新一の称号は、「鬼神の工藤」となっていたのであった。
 今の彼を一目見たものは、その称号に深く頷くであろう。決して人としての情を忘れている訳ではないのだが、犯人を追い詰める時の容赦の無さ、その眼光の恐ろしいまでの鋭さは、見る者を震え上がらせるに充分であった。

 何が彼をそこまで変えたのか。
 それを知るのは、新一と親しいホンの一握りの人間であった。

 新一が蘭に別れを告げられて、早二ヶ月。その間、新一の世界は色彩を失ったままだ。
 たとえ自分のものではなくても、自分の命より大切でかけがえのない存在である蘭が、この世界に存在している事。そして、探偵としての自負心。その二つが辛うじて、新一を支え、日々を過ごさせていたが。
 新しい年を迎えても、今の新一は、未来への希望も何もかも、持ち合わせてはいなかった。

 蘭に別れを告げられた後、新一は、どうやって家に帰って来たものか、覚えていない。
 それでも探偵としての勘が働いて、帰宅後、家で着替えをしている時に、いつの間にか上着の襟に取り付けられていた小さな装置を発見した。
 阿笠博士に預けて調べてみると、それは遠隔操作で特殊な音波と電磁波を発生させるもので、更に盗聴器を兼ねていた。大して害になる程の物ではないが、それでも、取り付けた相手には少しの間頭痛を起こす程度の芸当は出来る。
 空港での、新一の突然の謎の頭痛の原因は、それであったのだろうと見当がついた。
 博士には引き続きそれの調査をして貰うよう依頼しておいたが、新一の頭からはそれ切りその機械の事は忘れ去られてしまっていた。普段の新一ならそのような事は有り得ないが、蘭に振られた事実が、彼の思考力を奪っていたのだ。
 だからその時の新一は、その装置が一体どういう意味を持つものなのか、不覚にも気付かなかったのである。


   ☆☆☆


 警視庁から戻った新一は、無意識のまま、上着を脱いでハンガーにかけようとして。ふと、蘭に振られたあの日、襟につけられていた装置の事を思い出していた。
 けれどすぐに、あの日蘭が見せた泣きそうな顔に思考がスライドし。苦笑して考えるのを止めてしまった。

 その時、工藤邸の玄関が音を立てて開かれ、ずかずかとリビングに入って来た者達がいた。

「工藤。おるか〜」
「お邪魔するぜ」
「服部、黒羽。何か用なのか?」

 新一は、訪れた友人二人、服部平次と黒羽快斗に向かって、冷たく言い放ったが。それ位で動じる二人ではなかった。

「工藤、最近急成長のテクノ谷中(やなか)、おもろい事が分かったで〜、実はやな……」
「わりぃけど。その話は止めてくれねえか」
「工藤、オメーが蘭ちゃんを寝取られたその男の名前など、聞きたくないのは、よおおく分かるぜ。けどな。実はそこの技術に、黒の組織が持っていた技術が、流用されているらしい」
「何っ!?」
「おまけに、オメーが空港で仕掛けられたあの装置も、テクノ谷中製である事が分かったんだぜ」
「せやで。それでも、聞きとうない言うんか?」

 新一は、底光りのする目で友人達を見た。先程までと違い、そこに拒絶の色は無く、話を聞こうとする態勢になっている事を、平次と快斗は見て取った。


   ☆☆☆


 工藤新一が江戸川コナンの姿であった時。怪盗キッドの本来の姿である黒羽快斗と知り合い、友人になったのは。お互いの戦いを通じてである。
 コナンは自分自身を取り戻す為に、快斗は父親の敵を取る為に、それぞれに始めた戦いであったけれど。最終的には個人的な事情や思惑を超えて、世界を救う為の戦いに発展した。
 二人は、探偵と怪盗という間柄であったが、その立場を超えて個人的に親しくなり、それぞれの戦いを支援する仲になった。

 服部平次も、コナンを通して快斗と知り合い友人になり、二人の戦いをサポートした。

 黒羽快斗は、戦いが終わった後、怪盗キッドを引退。幼馴染で、キッドを追っていた捜査二課の中森警部の娘である中森青子に、全てを告白し、今は恋人同士になっている。


 新一が、高校三年の春、黒の組織との戦いを終え本来の姿を取り戻して、蘭に全てを告白してから、渡米するまでの僅かな間に。快斗と青子も、蘭と直接交流を持つ機会があった。
 新一は、五月半ばの蘭の誕生日を、蘭と共に過ごし祝ってから、日本を発った。そして、新一が渡米している間、蘭は青子や和葉と親しく過ごしていたし、快斗や平次との交流も、そこそこあった。

 しかし、新一に別れを告げた後の蘭は、明らかに青子や和葉との接触を、避けるようになっていた。

 新一は、今度こそ「本当に」蘭と離れ離れになってはいても、メールや電話でのやり取りは頻繁に行っていたし、帰国する直前まで、蘭とのやり取りはラブラブだったと思っている。
 だから、帰国して空港で再会した途端に、蘭から別れを告げられて。混乱したし、絶望的になり、何も考えられなくなって。今迄以上に寝食を忘れて探偵活動にのめり込む事で、何とか自分を保っていたのであった。

 蘭の新しい恋人が、急成長中のベンチャー企業であるテクノ谷中の若き社長・谷中政春(やなかまさはる)である事は、風の噂に聞いていたものの。そこからは目を逸らす日々だった。


「工藤君、蘭ちゃんが心変わりするなんて、絶対絶対、おかしいよ!」
「あないに、工藤君の帰りを待っとった蘭ちゃんが、心変わりなんて、有り得へんって!」

 青子と和葉は、必死な様子で新一に訴えたが、新一は正直、それすらも煩わしいと感じていた。


「新一君!一体、蘭に何をしたのよ!」

 園子がそう言って怒鳴り込んで来た時も。新一は無気力な冷たい目を向けて、言ったものだ。

「どうもこうも。オレが蘭に振られちまった、それだけの事だろ?蘭の心変わりを、何でオメーにどうこう言われなきゃなんねえんだよ?」
「でも……蘭が、何もなくて、心変わりする筈ないもん。きっとアンタが何かしたんでしょ!?」
「……そう思いたいんだったら、思っとけば良いだろ?」

 尚も必死で言い募ろうとする園子に背を向けて。新一は玄関の扉を閉ざしてしまったのだった。


 新一は、玄関ドアに背中でもたれかかって、そのままズルズルと崩れ落ちた。
 両拳を爪が食い込んで血が滲み出るほどに強く握り締め。瞼を閉じて、ただ一人の女性の面影を追う。
 蘭を力尽くでものにして攫って行けるものなら、それで蘭の心が取り戻せ、蘭の笑顔が見られるのなら、躊躇わずそうしている。けれど、そんな事は出来はしない。

 蘭を、愛している。
 蘭に笑顔でいて欲しい。

 だから、新一は、蘭に別れを告げられて。死ぬ程に辛かったけれども、それを受け入れる以外、なかったのだった。

 けれど。黒の組織絡みの事は、蘭以外の事で新一の心を揺り動かせる数少ないものであり。
 蘭の恋人・谷中政春が経営するテクノ谷中が、消滅した筈である黒の組織の技術を流用しているのだとしたら。それを見過ごす事は、新一には出来ない相談であった。

 新一の眼裏(まなうら)に、蘭の笑顔と、空港での別れの時に見た泣き顔が浮かぶ。

「蘭、オレは、もしかしてまた、オメーを泣かせるような事になっちまうのか?だとしても、あの組織の負の遺産が、世に放たれているのを、オレは見過ごす訳には行かねえんだ……」

 新一が動く事が、果たして、蘭の幸せを守る事になるのか壊す事になるのか。
 それは、今の時点では、誰にも予測出来ない事なのであった。



(2)に続く





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