心の旅路



By ドミ



第二部 過去からの呼び声



(四)追憶



「よお。大丈夫か?ジミー」

 かけられた声が英語だという事は分かった。言葉の意味は分かるが、それが母国語ではない事も理解した。

 新一……いや、今は記憶がない彼を、仮にジミーと呼ぶ――はゆっくりと起き上がった。きょろきょろと辺りを見回す。ここは、どこかのアパートの一室であるようだ。

「頭がいてえが、別に致命傷ではなさそうだ。けど……」

 ジミーは、かけられたのと同じ言語――英語で言葉を返した。相手は、茶色の巻き毛で鮮やかな青い瞳の三白眼、全く見覚えのない男だった。

「オメーは一体、誰だ?」
「……覚えてないのか?」
「ああ、生憎だが」

 その男は大きく息をついた。そして言う。

「まあ、覚えてなくても仕方ないがね。君は崩れ落ちる建物からオレを庇って怪我をしたんだ。その事は分からないか?」
「……いや。と言うより。オレは、自分が何者か、何をしていたか、まるっきり記憶がねえようだ」
「本当か?」
「ああ」

 三白眼の男が舌打ちして「shit!」と小さく吐き捨てるように言った。

「……どうした?」
「ああ、いや。お前はどうやら、オレを庇って頭を打った事で、記憶喪失になってしまったらしいな。命の恩人を放り出す訳には行かないから、面倒を見るよ、ジミー」
「ジミー?それがオレの名なのか?」
「イヤ……オレが適当につけた。名無しだと困るだろ?」
「で、オレはあんたの事を何て呼べばいい?」
「エドガー。エドガー・ドイル、まあ本名じゃないが普段これで通してる。お前もオレの事、エドって呼んでくれよ」
「エドガー・ドイル?」
「……どうした?」
「イヤ……聞いた事があるような気がして……」
「それは、オレの名として聞いたと言うより、ガキの頃散々読んだ本の作者名だろうぜ。オレの名は有名どころの推理作家から取ってるからな」

 エドガーは、ベンチャー企業を起こしたばかりだと言った。
ジミーはとりあえず、身元が分かるか、独立して身を立てられるようになるまで、エドガーのアパートで同居し、仕事を手伝う事になった。


   ☆☆☆


「しかし驚いたなあ。仕方なく拾っただけの男が、こんなに使えるやつだったとは」
「おい。ジミーはオレの命の恩人だ。仕方なく拾ったなんて言うなよ。けど、こんなに使えるやつとは、オレも予想外だった」

 エドガーの起こしたアーサー・ドイル社は、まだ少ないスタッフで運営されていた。成長中と言ってもまだまだ余裕のない経営状態の会社に、いきなり入って来たジミーの事を、最初スタッフ達は、胡散臭げに見ていたが、ジミーの幅広い知識と何でもそつなくこなす能力に、すぐに舌を巻く事になった。

「記憶がないのに、知識はあって助かったな」
「コンピューターの扱いは、下手すっとオレ達の誰より長けてるんじゃないか?」
「おいおい、仮にも電子機器を中心とした会社のスタッフがそれで良いのか?」

 スタッフ達がわいわいと騒ぐ中、ジミーは淡々と仕事をこなした。
 何故かジミーには、エドガーの片腕として頭角を現さないといけないという、使命感のようなものがあった。しかしそれは、エドガーへの信頼感とか友情とか義理とか、そういうものとは別だと感じていたのである。

 自分が何者で何を専門にしていたのかは分からない。少なくとも、このような会社でコンピューターを相手にして仕事していた訳ではなさそうだが、驚いた事に、たいていの事はこなせそうな雑学的な知識が、自分の中にはあった。
 自分がどこの誰で何をしていたのか、気にならないと言えば嘘になるが……今はここで仕事をこなすのが大事だと、自分の中の何かが告げる。ただ、何かモヤモヤしたものが引っ掛かっていて、焦燥感に駆られる。それが何であるのかは、分からないけれども。

「ジミー、飲みに行かないか?可愛い子、いるぜ」
「イヤ……オレはいいよ。楽しんで来てくれ」

 ジミーは誰とも食事や酒の席に付き合おうとはしなかった。別に頑なに拒んでいる訳ではないのだが、気が乗らないのである。

「ジャパニーズって社交ベタだが、仕事仲間との付き合いは良いと聞いた事があるが?」
「いやオレは、ジャパニーズはワーカホリックと聞いたぜ」
「ジミーってジャパニーズなのか?東洋人なのは間違いないが」
「ああ、本人が母国語は日本語だと言ってたからな」

 同僚達がそのような会話をしながら出て行くのを耳にしたが、ジミーは黙ってパソコンの画面に向かっていた。

 社長のエドガーのアパートに同居しているが、プライベートで一緒に過ごす事は殆どない。同居と言っても、日本の感覚と違い、アパートをシェアしているだけの事なのである。


   ☆☆☆


「よう、ボーイ。今朝も張り切ってるね」
「あ、お早うございます」
「あらジミー君。よく会うわねえ」

 最近のジミーは、朝、セントラルパークまで行って、ジョギングするのを日課にしていた。何となく、「体は鍛えないといけない」という、使命感にも似たものを感じているのである。
 サッカーボールを見るとうずうずして体が動き出す事から、元々サッカーは好きだったようだ。最近はサッカーボールを手に入れて、リフティングしたりして過ごしている。

 毎日セントラルパークに通っていると、よく顔を合わせる人も多く、自然と友人も出来てきた。少しずつ、ホームパーティに誘われたり、一緒に出かけたりする相手も出来るようになった。
 元々の自分は、意外と如才なく他人との付き合いもやって来たようである。アーサー・アラン社では、プライベートに踏み込んだ付き合いをしたいと思う相手はいないけれども。

 中でもジミーが親しみを感じているのは、日系人の紳士・八木司と、日系人の婦人・江戸川文代だった。
 八木氏は東洋人にしては背が高く、ちょび髭を生やし、いつも英字新聞を広げて読み耽っている。時折ジミーを掴まえて、妙に薀蓄を垂れて来るが、その知識の幅広さは確かにジミーが舌を巻くほどだった。
 江戸川文代は小太りで眼鏡をかけている優しそうな婦人で、時々犬の散歩に来ている。妙にジミーを気にかけては、いつも食事がワクドナルドというジミーに、時々差し入れをしてくれるのだ。

 二人とも毎日ではなく、時折見かける程度である。公園で会う以外のプライベートなお付き合いもない。職業が何かも知らない。
 セントラルパークには、他にも、東洋人系黒人系の人を多く見かけ、日系人も居るが。ジミーは何故か、その二人が特別気になっていた。それは単に、日本語で会話出来るというだけの事ではないだろうと感じていた。

 ジミーが「ジミーとして」生活を始めてから、やがて二ヵ月が過ぎようとしていた。

 今の生活に特に不満や不安や焦りがある訳ではないか、ジミーは時折、焦燥に駆られる事がある。どうもそれは、夢にも現れるらしい。
 夢の中でジミーは、誰かの名を呼んで飛び起きる事がある。なのに、目が覚めた時には夢で出会った相手の顔も呼んだ名前も分からないのだ。

 失った記憶の先に、何か大切なものを置いて来ている。それは自覚していた。けれど、今、その大切なものを追い求めようとしてはいけないと、心のどこかでブレーキがかかっているのも、ジミーは同時に自覚していたのである。


   ☆☆☆


 夜半。自室でぐっすり眠っていた筈のジミーは、嫌な感覚を覚えて飛び起きた。

「な……!?エド!?」

 ジミーに覆いかぶさろうとしていたエドガーが、ジミーが起きたのに気付いて慌てて離れようとしていた。

「どういう心算だ……!?」

 ジミーが低い声で問う。エドガーは両手を挙げた。

「オレは女性に興味が持てない性質でね。実は、君のような『細身で童顔で、けれど実は精悍なヤツ』ってのが、すごい好みなんだ。恩人を住まわせるんだから我慢する気でいたが、ムラムラと来ちまってね」
「……オレには、その手の興味はねえ」
「そうだろうな。ジミー、お前は女性に興味を示さないから、もしかしたらと思ったんだが、別にホモセクシャルという訳でもなさそうだ」

 エドガーがそう言って溜息をつく。ジミーは油断なく身構えていた。

「悪かったよ。二度としない。もう同居も嫌だというのなら、ここを明け渡してオレは出て行くさ」
「いや。あんたが出る必要はない。オレの方が出て行くさ、アパートは……自分で探す」
「……このニューヨークで、一人で住むアパートを探すのは大変だぞ。家賃が馬鹿高いから、大抵の者がルームメイトと一緒に住んでる。あんたは命の恩人だからここを引き渡すなら出来るが、新しく借りるアパート代を丸々は出してやれない」
「フン……まあ何とかするさ。自分でルームメイトを探すよ、エド以外のな」
「なあ……アラン社を辞めるとは言わないよな。お前に抜けられると正直痛い」
「心配すんな。オレだって当てはねえから、当分は勤めさせて貰うぜ」


   ☆☆☆


 ジミーはあっという間にアパートを探し出して引っ越してしまった。ジミーはこの短期間に社外でも多くの友人が出来ており、ルームメイトの名乗りを上げた者は意外に多かった。が……。

「どうして誰も彼も色気づいてんだ?こっちでは『ただの友人』のルームメイトが多い筈なのに、どうしてこう……!」

 ジミーは苛ついていた。何故かジミーとルームメイトになろうと言う者は、男女問わずことごとくジミーとの「関係」狙いだったのである。
 男の場合はジミーをくみし易しと見て襲って来てジミーに撃退され、女の場合は色仕掛けで迫って来ようとしてジミーに叩き出された。

 セントラルパークで江戸川文代相手に、ついその愚痴をこぼしてしまう。(文代自身は、家庭がある年配の女性であり、最初からルームメイトになりようがないのは分かっていた)
 ダックスフントの太郎を膝に乗せながら、文代は話を聞いていた。

「ジミーには、自覚がないのね。あなたには男性も女性も惹き付ける強いセックスアピールがあるのよ。日本では大した事がなかっただろうけれど、ここはニューヨーク。我慢しろと言う方が酷かもね」

 文代は面白そうに言った。ジミーは溜息をつく。

「そんなもんですかねえ……けど早く見つけないと家賃が痛いなあ」
「んふふふ〜。ジミーって、男は駄目でも、女の子相手に、割り切って体のお付き合いをしようとかは思わないの?」
「……駄目ですよ。ぜってーその気になれねえんだから」

 自分が同性愛者でない事は、はっきり分かる。同性に触れられるのが気持ち悪いからだ。けれど、女性に対しては嫌悪感は持たないまでも「その気」にはなれないのである。

「まあ、その内、何とかなるんじゃない?」
「……そうですね。いつもありがとう、話を聞いてくれて」

 ジミーは自分でも不思議だった。文代相手にだったら、何故か警戒心を持たずに自分の事を話す事が出来るのだ。

「もう。ジミーったら、いつまでも他人行儀なんだから、悲しいわ。敬語なんか使わなくって良いのに……」

 文代は柔らかく微笑む。ジミーはふと、記憶にない母親は、このような感じなのだろうかと思った。

 そのジミーに転機が訪れるのは、ワクドナルドハンバーガーショップに食事に行った時である。
 体にあまり良くないと分かっていても、経済的な問題もあり、近頃のジミーの食事は殆どワクドナルド専門だった。ある日そこで彼は、新しいバイトの女性「レイチェル」と出会うのである。



to be continued…




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