心の旅路



By ドミ



第一部 再び動き出す時間



(二)夢で呼ぶ名



 新一が帰って来たのは、丁度、夏期休暇が終わりを告げる時期で。新一は予定より一年遅れで、大学に入学した。アメリカの学校は、夏期休暇明けが新学年となるので、そういう意味では丁度良かった。
 蘭も新一不在の時期は、大学には行っていなかったとの事で、新一と同時に新学年が始まった。

 新一は、持ち前の推理力でニューヨーク市警の信頼も徐々に得、学生探偵として忙しく飛び回る身になった。

「新ちゃん、元気そうねえ」
「母さん。どうしてここへ?」

 遅れた新婚生活を送る新一達の元へ、母である有希子が訪ねて来たのは、新一が記憶を取り戻して一週間が過ぎた頃だった。

「どうしてとは、ご挨拶ねえ。一年半も行方不明になってた息子の事、母親として心配だからに決まってるじゃな〜い」
「行方不明って……オレがどこに居て何してたか、ちゃんと知ってたくせに」
「んふふ、まあねえ。でも新ちゃんは記憶がなかったし〜、目の前に行っても知らん顔されたし〜、記憶がないなりに、楽しそうによろしくやってたから、別に良いかと思って〜」

 新一はちらりとリビングの入り口に目をやり、蘭が傍に居ない事を確かめると、母親に顔を寄せて訊いた。

「オレ、どんな生活してたんだ?」
「あるベンチャー企業の社長の片腕」
「は!?」

 有希子の返事に、新一は目を剥く。

「わざわざ声を潜めなくても、蘭ちゃんだって知ってるわよ。最近急成長を見せている、アーサー・アラン社っていう電子機器会社なのだけど、新ちゃんは何故か、その社長に拾われて、片腕として活躍してたわ」
「……その社長が、やばいヤツなのか?」
「そうねえ。やばいかもね。何せ、新ちゃんは、その社長から夜這いかけられそうになって、同居生活を解消した位だから。アメリカって、日本よりその手の趣味の人が多いですものねえ」

 有希子はあっけらかんと面白そうに、とんでもない事を口にした。元々一筋縄では行かず、訊いた事をまともに教えてくれる母親ではないと分かっていたが、新一は頭を抱えた。
 勿論このようなぶっ飛んだ母であっても、息子への愛情は人一倍で、本当に助けが必要な事態であれば、すっ飛んで来たであろう事は、新一にもよく分かっていた。
 父も母も蘭も、新一が何をしているのか知りながら、見守っていただけだったという事は、新一が記憶喪失ながらも自分で何とか対処できていたから、他者の助けが必要ではなかったからに他ならない。

「なあ。オレがずっと記憶を取り戻さなかったら、そのまま見守り続けるだけのつもりだったのかよ?」
「アラ。そんな事はないわよ、新ちゃん。だって、新ちゃんですもの、いずれは自分探しを始めると思っていたわ。もっとも、自分探しを始めた新ちゃんが、後もう少しで全てを知ろうとするその前に、記憶が戻っちゃったのは予想外だったんだけどね」

 有希子の言葉に、成る程と思う。

「けど新ちゃん、今の新ちゃんは逆に、この一年半の記憶がない分、危ないかも知れないわ」
「……だろうな。ジョディさんとか赤井さんとかが、ウロウロしてたからな」

 新一は、帰って来た当初から、FBIの監視を感じていた。それが新一を守る為であろうと分かってはいたものの、やはりげんなりとしてしまう。
 一番我慢ならないのは、自分自身が渦中にあるにも関わらず、一番何も知らずにつんぼ桟敷に置かれている事だ。父と母は、その点に関しては決して甘やかしてくれない。暗に、自分自身の手で真実を掴めと、突き放されている。それはありがたい事とは言えるのだが。
 新一は事件を自分なりに調査し始めたし、いずれそちらの真実は、必ず突き止める積りで居る。

 失われた記憶の事で、新一が知りたいと思って焦れるのは、事件の事や自分がどんな仕事をしていたかではなく。
 時々夢に現れて新一の心を惑わせる女性の事だった。


   ☆☆☆


「レイチェルッ!」

 新一は大きな声で女性の名を呼んだ。
 その直後。

「新一!どうしたの!?」

 新一は蘭に揺すられて目を覚ました。

「蘭……?」

 新一は体を起こす。蘭が心配そうに新一を見詰める。

「蘭…オレは、何か寝言を言っていたか……?」

 新一がそう問うと、蘭は一瞬息を呑んで答えた。

「ううん、何も……」

 その眼差しが揺れた。新一は、今寝言で呼んだ女性の名が、蘭に聞こえてしまった事を悟る。
 けれど、俯いて涙を堪えている蘭に、何も言える筈がなかった。思わずぎゅっと蘭を抱き締める。

「新一……?」
「蘭。オレは、オメーのもんだ。オメーだけのもんだ。この身も心も、全部……!!オレには、オメーだけだ。なのに……」
「新一……知ってるよ。分かってる。私も、新一だけのものだから……」

 そう言って蘭は新一を抱き締め返した。

 その夜、新一は、憑かれたように蘭を抱いた。何度も蘭の中に己の欲望を解き放ち、それでも新一の昂りはおさまる事を知らなかった。

 けれど、どんなに溺れるように蘭を抱いても、知ってしまった「レイチェル」という名前は、新一の頭から消え去る事はなかったのである。


   ☆☆☆


 ともあれ、表面上は特に何もなく、日々が過ぎて行った。

 ある朝、蘭が体調が悪く講義を欠席するというので、新一は蘭を病院に連れて行こうと思ったのだが、蘭に「自分で行く」と断られ、一人で登校した。
 講義を受けながら新一は気が気でなく、「やはり蘭についていてあげれば良かった」と、苛苛しながら時間が経つのを待っていた。

 工藤新一という男、遠くからでも蘭の姿は一目で分かる。新一が昼の休憩時間に、蘭の事を気にして自宅に向かっていると、蘭が、とあるクリニックから出て来た姿を目撃してしまった。
 そのクリニックを見て、新一の頬がほころぶ。蘭の体調不良はその為だったのかと、早合点してしまったのだ。

 夕方、新一が花を買って帰宅した時。蘭は居間で、テーブルの上に書類を置いて、考え込んでいる風だった。

「ただいま」
「お帰りなさい。……どうしたの、その花?」
「帰りに買って来たんだけど……あ、もしかして今日の蘭には、花の匂いが駄目か?」
「ううん、そんな事ないよ。ありがとう、嬉しい」

 蘭は立って台所に行き、花瓶を探し出して生け始めた。
 新一は、蘭がテーブルに広げていた紙を見る。検査データ一覧のようだった。ざっと目を通す限り、特に異常値は認められない。

「もう、起きてて大丈夫なのか?」
「うん。それ、見たんでしょ?別に異常なし、ちょっと過労で体調崩しただけだったみたい」
「……そっか。今日の昼、蘭がクリニックから出て来たところを、偶然見たからてっきり……」
「ええ!?新一、見たの!?うん、私も、もしかしてって思ったんだけどね、違ってたの。ごめんね……」

 蘭がうな垂れ、新一はたまらなくなって蘭を後ろから抱き締めた。

「何で…何で蘭が謝んだよ!?オレの…所為だろ?もしオレが記憶を失わなくてずっと蘭の傍に居たんだったら、オメーは今頃、可愛い赤ん坊抱いてたかも知れねえのに……」

 そう、今日、蘭が訪れたのは、産婦人科の専門クリニックだったのだ。

 新一は、高校を卒業するまでは、避妊には細心の注意を払っていた。もっとも、避妊しても100%ではないので、もしもの時は小五郎に殴られてでも、早くに籍を入れて子育てする覚悟はあった。
 正式に籍を入れてからは、新一は全く避妊せずに蘭を抱くようになった。幸か不幸か、ニューヨークの最初の夜に、蘭が懐妊する事はなかったのだが。
 新一が蘭の元に帰って来てから、そう長く経ってはないけれど、毎晩のように幾度となく肌を合わせているので、いつ子供が出来ても何の不思議もない。
 けれど今回は、お互い、少し先走り過ぎたようだ。

「新一。子供は授かりものだから……それに、新一は約束を果たして私のところに帰って来てくれた。新一の所為なんかじゃない…から……」

 そう言って蘭は、新一の方へと向き直り、新一の首の後ろに手を回し、伸び上がって自分から新一の唇へ自分のそれを重ねた。

 その夜新一は、流石に体調不良の蘭を気遣い自重しようとしたのだが。

「新一は、私のものなんだよね?だったらそれを感じさせて」

 そう「おねだり」した蘭にあえなく陥落し、常と変わらぬ熱く甘い夜を過ごしたのであった。


   ☆☆☆


「でね、あの時決まってたんだけどぉ、もっと蘭ちゃんに似合うドレス見付けたのお。だからね……」

 有希子が嬉々として喋るのを、新一はげんなりしたように聞いていた。

「んもう!新ちゃんったら、真面目に聞いてないんだから!」

 有希子が口を尖らせ、新一が反論した。

「だってよ……どっちみちオレは、まだ見せてもらってねえんだから、どっちのドレスがどうのと言われても、分かる訳ねえだろうが!」

「まあまあ新一君。女性にとって結婚式は夢の晴れ舞台なのに、お前の至らなさの所為で蘭ちゃんを待たせまくったんだから、少しは身を入れて聞いてあげなさい」

 そう嘴を入れてきたのは、新一の父親である優作である。

 優作と有希子はここ暫くニューヨークに滞在しており、時々新一の所に顔を出す。新一の事が心配で、いざとなったら助け舟を出す気なのではあろうけれど、それをお互い素直に口に出す親子ではない。
 そして、一年半前に挙げそびれた新一と蘭の結婚式だが、改めて仕切り直しの式を行う事になったのだった。

 蘭の両親である小五郎と英理は、新一が戻って来た後、一度、ニューヨークを訪ねて来た。その時、散々文句も言われたものだが、既に入籍済みでもあり、今更「反対」出来る訳でもなかった。(まあ、反対する積りはなかったようであるが)
 新一と蘭の改めての結婚式には、小五郎と英理は勿論、園子や平次・和葉といった友人達も、改めて駆けつけてくれる事になっている。

 一年半前にも、勿論、彼らは皆、ニューヨークを訪れていたのだ。けれど、新一が爆破されたホテルの中で行方不明になったと聞いて、彼らも一様に心配していたのだという。
 新一が見つかった事、けれど、記憶を無くして別の人物として生活しており、優作達が遠くから見守っている事、そして今回、無事記憶を取り戻して戻って来た事、それらの情報は、逐一彼らにもたらされていた。
 新一が戻って来た後、園子からの山程の文句、平次達からの祝福ともからかいともつかない言葉、そして小五郎達の雷と、色々あって。新一は、無理もない事と受け入れつつも、辟易していたのであった。


「勿論、待たせた蘭の言う事だったら、頑張って聞くけどよ。母さんはただ、蘭に着せ替え人形させてえだけだろ?」
「あら。しっつれーねー。新ちゃんだって、蘭ちゃんが似合うドレスを着て綺麗な方が、嬉しいでしょうに」
「蘭は別に、着飾んなくたって綺麗だよ!」

 新一は、怒鳴ってしまってから、しまったと思ったが、もう遅い。主役の筈なのに傍で話を聞いておろおろしていただけの蘭は真っ赤になり、両親はニヤニヤと笑っていた。

「新一、式の前に、出来る限り不安材料を断っておくに越した事はないね」
「ああ。わーってる。けど、父さんとFBIが動いててさえ、尻尾が掴めねえのか?」
「君は少しばかり、私達を買いかぶり過ぎだ、信頼してくれるのは嬉しいがね。記憶がない君をずっと見張っていながら、君を保護出来なかった事実だけを取っても、如何に尻尾を掴ませない相手なのか分かりそうなものだろう?
 表向きは全く健全な会社で、爆破事件を起こすメリットは何もない筈なのだよ。それに、いつでも君を殺せる位置に置きながら敢えて手を下さなかった理由も解せない。
 君の正体も、記憶を取り戻して元の世界に戻っている事も、分かっているだろうに何故沈黙を守っているのか。
 まあ、結婚式の時には表では見えないところで万全の警備体制が敷かれる。けれど、全く安心という訳には行かないのが辛いところだね」
「ああ……そうだな……」

 本当は新一としては、リスクがそれだけ高いのなら結婚式など延期してもと、思わないでもなかった。けれど、節目としての大切な儀式である事、何よりも蘭の心情を考えて、止めるとは言えなかったのだ。

「分かっているとは思うが。蘭君を守るだけでは、まだまだ役者不足だよ。自分自身も守れなければ、大切な人を本当に守る事は、結局出来はしないのだ」

 優作の言葉に、新一は素直に頷いた。


   ☆☆☆


 新一は、大学図書館のパソコンに向かい、改めてアーサー・アラン社の情報にアクセスする。誰が調べているのか知られないように……と言っても、表立ってここで調べられるような情報は限られているし、既に皆に知られている事ばかりだ。

「アーサー・アラン社の社長エドガー・ドイル?って、どう考えても偽名……ってか、通り名だな。確かにアーサーもエドガーもアランも、単独ならありふれた名前じゃあるが。二五歳独身…と。若いな」

 社長自身の名前と社名は、エドガー・アラン・ポーとアーサー・コナン・ドイルから取っているのはまず間違いなく。このネーミングセンスは江戸川コナンと全く同じだと考え、新一は苦笑する。

 ふと、頭に浮かんだのは、「レイチェル」という女性の名。無意識に検索にかけそうになって、新一は頭を振った。
 それこそ、アメリカではありふれた名前だ。それに、知ってどうしようというのか?

「オレは……」

 新一は拳を握り締める。愛しているのは、蘭だけ。欲しいのは、蘭だけ。なのに、新一の知らない記憶の中で、ひっそりと息づく「レイチェル」が、確かに存在していた。

 新一はもう一度頭を振る。今は、それどころではない。アーサー・アラン社に潜り込む為の手配をしているところなのだ。新一自身は社長に顔が知れているから、母有希子お得意の変装術を使い、偽の身分証明を使って、就職する手筈になっている。


   ☆☆☆


 新一が大学の図書館で調べ物をしている間、先に帰宅した蘭は、有希子の作業の手伝いをしていた。

「有希子お母さん。新一にまだ本当の事言っちゃ、駄目でしょうか?私の事で深く悩んでいる新一を見ると、本当に心苦しくて……見ている私まで辛いんです……」
「んふふ〜、蘭ちゃん、ありがと。新一の事をそれだけ愛してくれて」

 有希子の言葉に、蘭は真っ赤になって口ごもる。

「蘭ちゃんが、どうしても我慢出来ないようだったら、新一に話して構わないのよ。ただ、どうも新ちゃんの記憶喪失には解せない事が多くてね。新ちゃん自身がきっと真実を見つけ出すんじゃないかと……」

 有希子の言葉に、蘭はハッと顔を上げ、涙ぐむ。

「お母さん、申し訳ありません!私、私……お母さん達の深い心も知らず、新一の事きちんと信じてなくて……こんなんじゃ、妻失格ですね」

 有希子は優しく微笑んで、蘭を抱き寄せて言った。

「ううん、ううん。そんな事ないわ。蘭ちゃんが一番辛い想いをしている立場なのだもの。蘭ちゃんは、新ちゃんの妻よ。もうあの子は私達のものじゃなく蘭ちゃんのもの。だから、蘭ちゃんが思う通りにして構わないのよ」
「お母さん。ありがとうございます。私、待ちます。新一がきっと、自分の力で真実を全て突き止めるって、信じて」
「蘭ちゃん……」

 妻と母親がこのような「密談」をしているとは、つゆ知らぬ新一なのであった。



to be continued…




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