むらさきの にほえる……



byドミ



(玖)妻問い



 蘭は、このまま寝ているのも憚られて、とにかく体を起こし、身支度をしようとしたのだが。まともに足腰が立たず、下腹部を中心として体の節々が痛く、ちょっとした動作にも苦労してしまった。それすらも、「新一に愛された証」と思えば、甘く感じられるから不思議だ。
 いつの間にか蘭の普段着が室内に置いてあったので、苦労しながらもようよう身を整える。そして、寝具を整えようとして赤く染まった敷布団を目にして、うろたえた。

「ど、どうしよう……新出先生の家の布団を汚してしまって……」

 とにかく謝罪して、どうにか弁済する以外にないと、蘭は思った。布団を汚したこの血は、蘭が新一に身を捧げ、新一のものになった印。他の誰でもない、新一によって破瓜の血を流した事、新一の刻印を受けた事、それが何よりも嬉しい。
 風戸京介を拒み気絶させた事で、周囲の人達には迷惑と心配をかけたと思うけれど、それでもあの時京介を退けて、純潔を新一にあげる事が出来て、幸せだと思う。

『昨夜、蘭をオレの妻にした』

 ひかるを通して伝えられた新一の言葉に、蘭は頬が染まる。昨夜蘭が新一のものになった事を、新一はそういう風に言ってくれたのだ。けれど。

『ここじゃ、無理だろう。オレが来る度、蘭とこんな事をするんじゃ、新出さん達に迷惑だろうし』

 もしかしたら新一は、蘭を別宅にでも迎えてくれる積りなのだろうか?
 このまま新出邸に居るのも、累が及ぶ恐れがある。だから、いずれはここを出なければ迷惑をかける。けれど、新一に妾の一人として迎えて貰うのも、工藤伯爵家に迷惑をかけはしないだろうか?

「あ……わたし……新一様に、何も言ってないよ……。ハッキリ、言わなくちゃ。迷惑をかける前に……」

 もし、風戸の件を新一が知って、蘭との仲を終わらせる事にしたとしても。新一に愛された昨夜の事が、きっとこの先、蘭の支えになる。

 新出邸の前に車が止まる音がした。今はまだ、車を持つ人は、ごく一握りの上流階級だけである。タクシーは存在するが、それだって、とても庶民に手が出せるものではなかった。

「新出先生は、貴族の中にもその腕を見込んで、是非に診て欲しいって人も居るものね。でも、大抵それは往診だけど、どなたか急を要する患者さんかしら?」

 蘭がぼんやりとそういう事を考えていると。病院ではなく家の方の玄関先が、賑やかになった。

 そして、蘭の居室がノックされ、初めて見る顔が部屋に入って来た。蘭と同じ年頃の少女で、顔に少しそばかすがある。その少女は、蘭に向かって丁寧にお辞儀をして言った。

「初めまして、若奥様。わたくし、工藤伯爵家の侍女の一人で、七川絢(あや)と申します」

 絢の言葉に、蘭は最初目をパチクリさせ。それから真っ赤になって叫んだ。

「ええええええええっ!?」
「若奥様?」
「なななな、何なの、そ、そそそそ、その……若……奥様……って……」
「え?だって、若様の奥様ですもの、若奥様でしょう?」

 絢がきょとんとした様に首をかしげてそう言って、蘭は頭が真っ白になってパニックに陥っていた。

「若奥様、さ、お支度を致しましょう」
「お支度……って……?」
「勿論、お屋敷にあがる為のですわ。ドクトル新出の奥方は、現在身重ですから、わたくしが若奥様の身支度を整える役目を仰せつかって参りましたのよ」
「え……あ……あの……っ!」
「7日後には結納、来月には挙式披露宴が控えております。それ故、若奥様には本日中にお屋敷におあがり頂きますようにと……」

 蘭の頭はますます混乱してくる。

「あ、あ、あのっ!」
「はい、何でしょう、若奥様?」
「一体、何の話なの?結納とか、挙式披露宴とか」
「本日、若奥様のご両親でいらっしゃいます毛利男爵様と男爵夫人様がおいでになり、めでたく、ご両家の縁組が整ったのです。若奥様が昨夜既に若様にお床入りあそばしたとの事で、急ぎ正式な婚姻の儀を執り行われる事になったのですわ」

 昨夜の事が既に両家の両親の知るところとなっているとは。蘭はかっと頬に血が上った。

「で、でもっ!わ、わたしはとても、新一様……子爵様の、正式な奥方になれるような立場では……」
「若奥様?立場と仰るのであれば。最早既にご両家で整った縁組でございますわ。それをどうしても嫌だとワガママを仰せられれば、ご両家に恥をかかせる事になってしまいます」
「あ、あのっ!で、でもでも、今日いきなり……」
「……困りましたわねえ。急な事で準備も色々ありますから、若奥様は今日中にお屋敷にお連れするようにと、重々言いつけられて参りましたのに。わたくし、奥様と若様から、きつ〜いお仕置きを受けてしまいますわ」

 大袈裟に溜め息をついてみせる絢の姿に、蘭は観念せざるを得なくなってしまった。


   ☆☆☆


 蘭は、絢の手で美しくドレスアップし髪を結いあげた。
 そして、新出夫妻に世話になって礼を述べ、暇を告げる。二人とも、蘭が正式に新一の妻として工藤邸へ迎えられる事を、とても喜んでくれた。蘭は、絢と共に車に乗り込んで工藤邸へと向かった。

 工藤家からの迎えの車を運転しているのは、阿笠と名乗る初老で体格の良い男性だった。人のよさそうな運転手の笑顔に、蘭はホッとした。

「若奥様?ご不安ですか?」

 絢が尋ねてきた。

「え、ええ。不安でないと言えば、嘘になるわ……。伯爵様と伯爵夫人様は、わたしのような者が新一様の傍に上がる事を、どのように思っていらっしゃるだろうかって……」
「ふふふ。奥様は、毛利男爵夫人様とは、女学校時代からのご親友なのだそうですよ」
「ええ?お母様が?」
「それに、伯爵様も奥様も、若様が年頃になっても全然そちらのご興味を示されないので、心配していらっしゃいましたから。今回の事は、とてもお喜びでしたよ。きっと、奥様は若奥様の事、お気に召すと存じます」
「……ありがとう……絢さん」
「絢と呼び捨てで構いませんわ、若奥様」
「あ、あの……出来ればその、若奥様という呼び方、変えていただけないかしら?わたしも出来れば、名前で呼んで貰えると嬉しいわ」
「そうですか……では、これから蘭様とお呼びいたしますね」

「いやあ、めでたいのう。新一様に、このように可愛らしい奥様がおいでになるとは、ワシも嬉しいですわい」

 阿笠運転手が突然語りかけてきたので、蘭は驚いた。

「いやいや、新一様の事は生まれた時から存じ上げております。あの通りの見た目と物腰で、女性に人気はあるが、新一様の方は全然興味なしで、ワシも密かに心配しておったのですじゃ。蘭様、新一様は変わり者だが良いお方ですぞ。伯爵様も伯爵夫人様も、優しい方達じゃ。大船に乗ったおつもりで、嫁いでおいでなされ」

 蘭は、使用人である絢や阿笠博士が、心の底から工藤家の人達を信頼している様子に、緊張がほぐれて行くのを感じていた。まだ見ぬ工藤伯爵夫妻だが、蘭が強く心惹かれた新一を育てた両親である。きっと素敵な方達に違いないと、蘭は思った。


   ☆☆☆


 工藤邸に到着した蘭を出迎えたのは、大勢の使用人と、工藤伯爵夫妻、新一、そして毛利男爵夫妻だった。
 蘭は優雅にお辞儀をして、挨拶する。

「初めまして。蘭と申します」

 工藤伯爵はとてもダンディな紳士で、伯爵夫人は、蘭の母親である英理とタイプは違うが、英理に勝るとも劣らない美人であった。

「蘭ちゃん、ようこそ。ああ……想像していた以上に、素敵な娘さんになったわねえ。蘭ちゃんは覚えていないでしょうけど、私ね、昔、小さいあなたと会った事があるのよ」
「ここはもう、君の家なのだから。私らでは役者不足だろうが、ご両親の代わりに大いに甘えてくれたまえ」

 気さくで優しげな笑みを浮かべて蘭を歓待し、色々と気を配ってくれる工藤伯爵夫妻に、蘭はとても感謝し、好感を持った。


 そして、伯爵夫妻の計らいで、蘭は暫くの間、両親と水入らずの時間を過ごす事になった。

「お父様、お母様!」

 三人だけになった時、蘭は涙を浮かべて父と母に飛びついて行った。

「蘭、元気そうだな、良かった……」
「あの。お父様……わたし、本当に良いのでしょうか?いずれ、伯爵様になられるお方の、正妻になんて……」
「向こうがそう望んでおられるのだから、お前が引け目に感じる事は何もねえ」
「そうよ、蘭。あなたは、どこに出しても恥ずかしくない立派な淑女だわ。有希子がついているのだし、伯爵夫人だって務まりますとも」
「でも、風戸子爵の件で、工藤伯爵家にご迷惑をおかけするような事になったら……」
「それは、先方もご承知の上での事。いくら相手が侯爵家でも、伯爵の跡継ぎの正妻に簡単に手出しは出来ねえ。だから、急ぎの縁談になったんだよ」
「えっ!?」

 蘭は、父親の言葉に。
 嬉しかったのだけれども、心に棘のようなものが引っ掛かるのを覚えていた。

 しかし、両親にこれ以上心労をかけたくないので、蘭は心の陰りを押し隠して明るく振舞った。それは、小五郎と英理と慌しく過ごす、最後の水入らずの時間でもあった。蘭は間もなく他家の人間になってしまうからだ。

「蘭。一時は本当に、どうなる事かと思ったわ。もしかしたらあなたと今生の別れになってしまったかも知れない。でも、工藤の若様が蘭を見初めて下さったお陰で……」

 そう言って嬉し泣きする母親を見ると、蘭はとても、自分の心に引っ掛かっている事を告げる気にはなれなかったのである。


   ☆☆☆


 夕食は、両家揃っての晩餐となった。そしてこれはまた、蘭にとって、「公式に」毛利家の一員として最後の時間である事も、分かっていた。
 挙式は来月。その間、蘭は「花嫁修業」の名目で工藤邸に居る事になる。既に今日、公式に知らせも済ませてある。
 貴族社会において、このような電撃結婚は前代未聞の事、色々と揶揄されるだろう事は予測がついたが、毛利家も工藤家もそれは既に覚悟の上だった。

 蘭は、和やかな雰囲気の晩餐の中で、笑顔を見せながらも、心の棘が大きくなって行くのを感じていた。

 新一を、他の何ものにも代え難く、愛している。その新一と結ばれ、その上、思いがけず正妻となれる、これ以上の幸福はない筈なのに。蘭の胸はちくちくと痛む。
 風戸の件で、工藤伯爵家にも新一にも、大きな犠牲をはらわせる事になったという罪悪感。蘭の胸に引っ掛かった棘は、それだったのである。


 夜も更けると、小五郎と英理は暇をつげ。
 湯浴みして浴衣に着替えた後の蘭が案内された寝室は、当然のごとく「新一の寝室」だった。


「ごめんな。一応、若夫婦用の寝室はあるんだが、使える用意がまだ整ってなくて」

 蘭が緊張した面持ちで寝室に入ると、新一にそう言われた。

 蘭は新一に抱き上げられ、そっと寝台に横たえられる。
 新一も、工藤家の人々も、皆優しく蘭を気遣ってくれている。とてもありがたい事だと思う。けれど、本来「若夫婦の寝室」を使える女性は、もっと別の女性だったのではないか。もし、あの忌まわしい事件がなければ。

 新一が、蘭を抱き寄せて、耳元で囁く。

「蘭?疲れたか?」
「え……いや、あの……」
「今夜は、ゆっくりお休み」

 そう言って新一は、蘭に夜具をかけると、自身は起き上がって出て行こうとした。

「し、新一様!?」

 蘭が身を起こして、悲鳴のように呼びかけた。

「どこへおいでになりますの?」
「……いや、客間に布団を敷いて休もうかと……」
「どうして?」
「いや、今夜はオメーをゆっくり休ませてえけど、オレは、オメーに手出しをせずに同衾する自信がねえからさ」

 蘭は、寝台から降りると、新一の背中に縋りついた。

「蘭!?」
「傍に、居て下さいませ」
「蘭……だけど……」
「お気遣いは嬉しゅうございますが、新一様が、別のお部屋に寝泊りなさる方が、わたしには辛いです」
「蘭。わーった」

 新一は、もう一度蘭を抱えあげると、再び寝台に横たえた。
 そして、蘭の浴衣の帯を解く。

「あっ……!」
「蘭、愛してるよ」

 新一の求めの激しさに、蘭は翻弄され。心に刺さった棘の痛みを感じながらも、満たされた夜を過ごしたのであった。


   ☆☆☆


 気を失うように眠りに就いた蘭を腕に抱き締めながら。
 新一は、じっと考え込んでいた。

 蘭が、辛そうな表情をしているのが、気になって仕方がない。

 まだ慣れない行為ゆえの苦痛があるとは言え、決して「新一に抱かれる事」が嫌で辛いのではない事は、分かっている。

 風戸子爵の件で、心配し、心痛めているのか?それは確かに、あるのだろう。
 蘭は、周りに迷惑をかける事を厭う、心優しい娘だから。どんなに言葉を尽くしても、「迷惑をかけているのでは」と思っている部分はあるのかも知れない。

 けれど、もっと本質的なところで、新一は、何かを間違えているような気がして仕方がなかった。

「愛している」と何度その耳に囁いても、蘭は微笑みながらも、どこか陰りを帯びた瞳で新一を見詰めるのである。

 新一の愛の言葉を信じていない訳ではないのであろう。蘭が新一を愛してくれている事も、間違いない事実だろう。
 けれど、新一の気持ちを受け止めながら、愛する男性に望まれながら、何故、そのような暗い辛そうな眼差しをしているのか?


 蘭の身も心も、全てを手に入れた筈なのに。何かが新一の心に引っ掛かっていた。



 このところ、ろくに寝ない日が続いていたから、流石の新一も深い眠りに落ちていたらしい。蘭が身じろぎして、新一が目を覚ました時は、辺りはすっかり明るくなっていた。


「ええ!?もう、こんな時間!?」

 周りの明るさに驚いて、蘭がガバッと起き上がった。

「たたた大変、早く起きて……ああ、でもまず、何をしなければいけないのかしら?お義母様をお起こしして、訊く訳には行かないし、ああでも、もう既に起きていらっしゃるかも……」
「おい、蘭、どうした!?落ち着け!」

 蘭が寝台から飛び出そうとするのを、新一は制した。蘭は、どうやらパニックを起こしているらしく、ヒクヒクと泣きながら、新一の腕から抜け出そうともがく。
 新一は、暫く強い力で抱き締めながら、蘭が少し落ち着くのを待った。蘭が暴れるのを止めると、蘭の髪を優しく撫でて、背中をさする。

「蘭。どうしたんだ?」
「わ、わたし……分不相応の立場になってしまったのですもの……せめて、きちんとお役目を果たさないと……」
「蘭。今日は、ゆっくり休むようにと、伝えられてっから、大丈夫だ。本当だったら、熱海の別邸あたりでゆっくり過ごしてえところを、危険があるという今の事情から、この屋敷で過ごす事にしたんだからな。
 だから、大丈夫。今は、誰もオレ達の新婚生活を邪魔しようという無粋な者は、いねえから。『工藤の若奥様』としての役目は、おいおい覚えてくれれば良い。急ぐ必要はねえ」

 そう言って、新一は蘭に口付けた。
 蘭の柔らかな体を抱き締めて、直に肌を触れ合わせていると、正直また欲情してしまっていたが、新一はさすがに今は我慢した。

 蘭は、一瞬微笑んだけれども、またその表情が暗くなる。

「蘭、一体何が気に入らねえんだ?」

 新一の言葉に、蘭は目を丸くして首をフルフルと横に振った。

「気に入らないなどと!ただ、あまりにも申し訳なくて……」
「オレが、蘭を望んだのに?何が申し訳ねえってんだ?」
「だって、新一様には、他のもっと相応しい姫君がいくらでも居られる筈。それなのに、わたしを正式な妻となさるとは……」
「オレは、オメーに気持ちを伝えた筈だが?オメーを愛している、ずっと傍に居て欲しい、だから妻としたい。それじゃ、駄目なのか?」

 蘭は、涙を盛り上げた目で、新一を見詰めた。

「で、でも……殿方であれば、立場上の妻とは別に、側女を置く事も可能ですわ。新一様なら、もっと身分が高い方が正妻となって、わたしは側女の立場になるのが、普通でしょう?それは……わたしだって……新一様が他の方を愛する事は、とても辛いけれど。それでも、本当だったら、お側に置いて頂く女達の1人の立場に過ぎなかった筈なのに。
 それを……風戸子爵様から守る為だけに、わたしのような女に妻という立場を与えられるなんて……あまりにも分不相応な事に、申し訳なくて……」

 新一は、大きく溜め息をついた。蘭が、何に拘っていたのか、ようやく分かったような気がしたのだ。


「あのなあ。蘭。もしオレが、相応な身分の相手を妻という立場に据えたとする。そしたら、どうなると思う?」

 蘭が、涙ぐみながら、首を傾げる。

「その『妻』は、本当に、形だけの存在になってしまう。決して、オレに抱かれる事も世継ぎを産む事もない、名ばかりの妻だ。そしてオレは、愛妾であるオメーの元でばかり、夜を過ごす」

 蘭は大きく目を見開いた。

「そうしたら。オレの名ばかりの『妻』になったその女は、とても哀れだと思わねえか?正妻という名の誇りだけで生きるには、あまりにも辛過ぎる現実だと思うが?」

 蘭は、コクコクと頷いた。そのような事を、おそらく考えた事もなかったに違いない。

「で、でも……殿方は、幾人もの女性を抱く事が可能だと……」
「他の男は知らない。けど、オレには無理だ。オレは……蘭以外の女性に欲望を抱けない男だからな」
「ええっ!?」

 蘭にとってはあまりにも意外な事実だったらしい。驚愕に目を見開いていた。

「それでも、蘭と知り合う前なら、他の女を抱こうと思えば、何とかなったと思う。けど、蘭を知ってしまった今となっちゃ、不可能だ。オメーしか抱けねえ。何しろ、オメーにしか、勃たねえからな」

 新一のあまりにも直接的な物言いに、蘭は真っ赤になった。

「だから、他の女を正妻に、蘭を側女になんて、間違っても考えてくれるなよ。それは、オレと正妻になった女双方に、苦しみを強いるだけの事なんだからな」
「新一様……わたし……」

 蘭の目から、大粒の涙がいくつも転がり落ちた。

「今回、縁談を急いだのは、確かに風戸の件があったからだが。オメーをオレの正式な妻にと考えたのは、風戸の件とは無関係だ。父上も母上も、オレの事を理解してくれているから、オレがオメーを妻にと思ったのなら、ぜってー反対はしねえ。だから……迷惑だなんて、思ってくれるなよ。オレが、オレ自身が望んだ事だ」

 蘭が見開いていた目を閉じ、その瞼からまた涙がいく筋も流れ落ちる。新一は、優しく唇でその涙を拭った。


「オレは……正直なところ、オメーとオレの身分が逆でなくて良かった、助かったと思ってる。今回ほど、生まれ持った身分というものに、感謝した事はねえ。
 元々、身分なんて、オレが自分の能力や努力で手に入れたもんじゃねえだろ?強いて言えば、ご先祖様の力だよな。
 もしオメーとオレの身分が逆だったら、それでもオレは、ぜってー、オメーを諦める積りはねえが。実際、すげー難しい事になってたと思うぜ」

 蘭は、新一の胸に頭をもたれさせて、黙って聞いていた。

「オレが欲しいのは、男爵令嬢だの何だのの、肩書きを除いた、オメー自身だ。毛利蘭という、ただ1人の女だ。他の女では、駄目なんだ」
「新一様……」
「たとえ、オレとオメーの身分が逆でも。オメーが皇女様でも。……たとえ、他の男の妻であったとしても。それでも、オメーじゃなきゃ、駄目なんだ……」
「わ、わたしも……新一様が、伯爵様の跡継ぎだから、お慕いしているのではありません。身分が逆だったら……そうですわね、父が絶対許す筈ないですものね。でも、その時はきっと、新一様さえ攫ってくれるのだったら、駆け落ちしてでも一緒になりましたわ」

 蘭が顔を上げて言った。ようやく、蘭の心からの笑顔を見て。新一は、ホッとする。そして新一は、大切な事を、蘭自身に告げて居なかった事に、今更ながら気がついた。


 新一は、そっと蘭の体を離し。蘭の肩から浴衣をかけて、その身を包み、自分も浴衣を羽織る。
 そして、寝台の上で、居ずまいを正して蘭を向かい合った。

「新一様?」

「このような場所で、こんな恰好で。すまねえが。今、言わせてくれ」
「???」

「蘭。ずっと、二人で生きて行きたい」
「新一様……?」
「オレと、結婚、して欲しい」
「え?だって……それは、もう決まったお話、でしょ?」
「違う、そうじゃなくて」
「???」

 新一は、大きく息を吸い込んだ。

「家同士の話が、先になって、済まなかったが。蘭。オレは、一人の男として。一人の女性としてのオメーと二人、人生を重ねて生きて行きてえんだ」
「新一様……」
「初めて会った、あの夜から。ずっとずっと、オメーだけを、想ってた。この先も、ずっと。生涯、オメーだけだ、ただ一人だけだ」

 蘭の眼が潤み、まなじりから涙が零れ落ちる。その涙は、決して悲しみの涙ではないと、新一には分かっていたから。焦りはしなかったけれど。やはり蘭の涙は、心臓に悪い。

「蘭。正妻とか妾とかいう括りは関係なく。オレの、生涯ただ一人の妻に。なってくれるか?」
「はい。……末永く、どうぞ宜しくお願いいたします」

 蘭がそう言って、蒲団の上に三つ指をつき頭を下げた。

「あ、こ、こっちこそ。宜しく」

 新一は妙に焦ってしまい、慌てて自分も頭を下げた。




(10)に続く

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<後書き>


ようやく、ここまで来ました。
作中時間的には、二人のハジメテの夜から、まだ、1日半も経っていないのですが、気持ち的にはえらく長かったな。

ここまで来れば、もう殆ど、この話は終わったも同然。
え?風戸の始末?ええっと・・・(遠い目)。

さて。
新ちゃんのお間抜けな勘違いについて、ですが。
流石のお父上お母上も、そこまで、お見通しではなく、新一君のお間抜けぶりは、今のところ誰にも見抜かれていませんけれども。

この後、蘭ちゃんにだけは、「それ」がばれた方が良いのかどうか、ちょい考え中です。
蛇足的に、「むらさきの」の歌についての解説も、入れようかなと思っています。

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