むらさきの にほえる……



byドミ



(肆)人妻ゆへに



「紫の匂える妹を憎くあらば人妻ゆえに我恋めやも」

 最近、万葉歌集に凝っている母の有希子が、詠みあげる声が聞こえ。新一は思わず背中を汗が流れ落ちるのを感じていた。
 新一も古典を一通りはかじっているから、この和歌が、「大海人皇子が、今は天智天皇の妻となっている、かつての妻・額田王」にあてて詠んだ歌であるという知識は、持っている。
 今の新一にとって、心臓に悪い歌であった。

「母さん……あ、失礼、お客様でしたか」

 母・有希子の向かい側に腰掛けているのは、母親と同年代の婦人。
 美貌を誇る母親と、同レベルの美人を、新一は久し振りに見たと思った。

 新一が素直に「美人」と感じるのは、何故かかなり年の離れた相手に限られている。
 先頃新一に熱を上げていた内田麻美にしても、世間ではかなりの美人と評価されているのだが、新一の目には正直、さほどに見えなかった。

 新一自身も、自分のそのような傾向が分かっていたが、それが何故であるのかは自分でも不明だった。
 新一と近い年代で、新一が美しいと感じた女性は、毛利蘭ただ一人だけなのである。

「英理、一人息子の新一よ。新一、こちらは毛利男爵夫人で、私の女学校時代の同級生で親友の英理」
「初めまして」

 新一は、「ではこの女性が蘭の母親」と、内心の動揺を押し隠して頭を下げた。

「初めまして。伯爵にも有希子にも良く似ておられるわ。それに、礼儀正しいご子息ね」
「何の、猫被ってるだけよ。この子、外面は良いんだから」
「あら。有希子、その辺はあなたに良く似ているじゃないの。それに、男爵夫人相手にも見下した態度を取らない辺り、伯爵と有希子の教育の賜物だわね」
「あらあら。英理が言う事だから褒め言葉と取っておくけど、世間的には新ちゃんのような立場の者が『分け隔てをしない』なんてのは、決して褒められた事ではなくってよ」

 有希子と英理の掛け合いは、一見、毒を含んでいるように聞こえるが、お互いに目は笑っており、「遠慮のない親しい間柄」だと思わせられた。

「あ〜あ〜、伯爵夫人なんて、しきたりばかりでちっとも良い事なんてないわ。仲良しだった英理とだって、なかなか会う事も出来ないのですもの」
「ええ……そうね。でも、男爵夫人であれば気楽な立場かと言えば、それも違うわよ」
「古代の人々が羨ましいわ。昔はお上の恋愛事情だって、あんなに奔放だったって言うのにねえ。陛下の妻に懸想して、お互いに恋の歌を残す、そんな事、とても現代では考えられないわ」
「何よ、有希子はちゃんと、自分の想いをまっとうさせたじゃないの」
「それは、英理だって一緒でしょ?私達二人共、想う殿方と泣く泣く引き離されて嫁がされる事もなく、好きな人と一緒になれたってのは、とても幸福だって思うわ」
「ええ……そうね。子供にも、家の為に辛い目に遭わせたくはないのだけれど」

 そう言って、英理は深い溜め息をついた。

「蘭ちゃんは、ひとり娘だったわよね。そろそろ、婿取りを考えないといけないけれど、蘭ちゃんが嫌がっているの?」

 新一は、思わず耳が大きくなっているのを自覚していた。
 英理は暗い顔でかぶりを振る。

「婿取りどころの話ではないわ。あの子は……。毛利の家なんか、どうなったって構わない、私はせめて、あの子が何の憂いもなく幸せに生きて行ければ、って、それだけを願っているけれど」
「英理……?」
「ねえ、有希子。身分が高い相手の妾として扱われるのと、身分が低い相手でも、ただ一人の妻として大切にされるのと、どちらがマシだと思う?」
「……難しい質問ね。もし私だったら、だけど。もし優作が私を正夫人としてくれなくても、私だけがただ一人の女で、他の妻が居なければ、受け入れられたと思うわよ」
「ただ一人の女であれば……か。有希子らしいわね」
「英理は?どうなの?」
「私だったらきっと……正夫人という立場がなくては、我慢出来なかったと思うわ」

 新一は、その話を聞きながら。
 蘭が、貴族ではない新出医師を夫として選んだ事を、母親である英理が赦そうとしているのだろうと、解釈していた。
 新一は無意識の内に拳を握り、きりりと痛む胸を抑えた。


「紫の匂える妹を憎くあらば人妻ゆえに我恋めやも」

 大海人皇子がこの歌を詠んだ時と、今の新一の状況は全く異なっている。けれど、新一はこの歌が妙に心にこびりついて離れなかった。

『人妻だからと言って、恋焦がれずには居られない』

 蘭という少女は、新一の心にしっかりと住み着いてしまっていた。


   ☆☆☆


 そして。
 新一は、自分の心を抑える事が出来ず、今日も口実を作って新出邸を訪れていた。


「蘭様」

 新一を手料理でもてなそうと蘭が台所に立っていると、ひかるが顔を覗かせた。

「ひかるさん。寝てなくて大丈夫なの?」
「ええ、最近はもう大分治まって来ましたし。そろそろ『安定期』に入るのだそうです」
「それは良かったわ。でも、無理なさらないでね」
「心配なさらなくても、工藤子爵様がおいでの時は、料理は蘭様にお任せしますわ」
「もう……!ひかるさんったら」

 ひかるの悪戯っぽい目付きに、蘭は真っ赤になった。

「工藤子爵様がしばしばおいでになるのも、きっと蘭様目当てだと思います。いつも、蘭様をじっと切なそうに見詰めていらっしゃるもの」
「そのような……あの方は伯爵家の跡取りで、いくらでも女性を選べる方。私など……」
「……同じ貴族の方たち同士でも、やはり身分・家柄の差というものがあるのですね……」
「ひかるさん……」

 ひかるの言葉に、蘭は申し訳ない気持ちになった。ひかるが新出医師と事実上も気持ちの上でも夫婦でありながら、日陰者の位置にある事を知っていたからである。
「でも、祝言を挙げられなくても、生涯妾の地位であったとしても、私は構わないのです。先生のお傍に居られれば、それで……こうやって、ややにも恵まれたのですしね」
「……そうね。そうだわね。私も……」

 蘭は、新出家に預けられる原因となった、忌まわしい出来事を思い起こしていた。身分は高くても好きでもない男に、剥き出しの肩や布地越しに胸と腰を触れられただけでも、吐き気がする程におぞましかった。
 けれど新一には、手を取られ腰を抱かれ踊ったあの時、甘美な想いに酔ったのである。新一だったらきっと、蘭の全てに触れられても、嫌じゃないだろうと思う。

「私ったら、何てはしたない妄想を。あの方に取って女性は選り取りみどり。私なんて……」

 蘭はそっと目を伏せた。新一はこの新出邸でも、蘭に優しく接してくれるが、それは他人行儀で距離を置いたものに感じられていた。


 蘭が十六歳になった時、社交界に出る事を命じられて、嫌々ながら舞踏会に参加した。
 けれど蘭には、男性と踊るという行為がどうにもこうにも我慢出来ずに、誰の誘いにも応じようとしなかった。けれど、「誘いを受けたのに断るなんて無作法だ」と叱られてしまい、蘭は誰の誘いも受けないように、いつもベランダに出て過ごすようになった。
 ある夜、夜桜に誘われて、うっかり上着を忘れてベランダに出て震えている時、新一と初めて会った。

 新一の、一見細身だがしなやかな強靭さを秘めた姿も、隙のない身のこなしも、好感を持てるものではあったが。
 蘭を見るなりダンスに誘って来たのには、警戒心が先に立ってしまった。名前を聞いて、「あの探偵気取りの道楽息子か」と思い、つい先入観で相手を判断してしまった。

 けれど、内田伯爵の令嬢がベランダから突き落とされて悲鳴を上げた時、すぐにかけて来て一緒に令嬢を助け、伯爵令嬢と蘭とに同等に気を配って素早く手当てをしてくれ、それから気持ちをスッパリ切り替えると事件解決の為に動き出し。
 それら全てが、蘭にはとても好ましく映り。気がついたら、新一にすっかり心奪われてしまっていた。

 それからの蘭は、舞踏会にも嫌がらずに参加し、新一からの誘いにだけ応じるようになったのである。
 蘭が見たところ、新一がダンスに誘うのは、蘭だけで。それは、泣きたくなる位嬉しい事であったけれども。新一はいつもぶっきら棒だったし、何も言ってくれる訳でもないし。
 もしや、新一は蘭の事などすっかり忘れていて、ただ適当に、壁の花である蘭を誘っているだけなのではないかとすら、蘭は思うようになった。

 蘭は、新一の腕に抱かれて踊るだけで、体が熱く、甘美な想いに酔ってしまう。舞い上がって、まともに声を出す事すら出来ない。
 新一は、蘭と踊りながらも、いつもぶっきら棒だけれど、蘭が他の人とぶつからないようにだとか、細やかに気を使ってくれている事に、蘭は気付いていた。
 きっと、本質的に優しい人なのだろうと思う。特に、女性や弱者に対しては、優しく接する態度が身についているようである。

 蘭は、新一のさり気ない優しさが嬉しくて切なかった。


   ☆☆☆


 そして。蘭が新一への切ない想いを募らせていた頃、事件が起こった。

 蘭は、新一と会えるのを楽しみに、舞踏会に通うようになったが。新一は時に事件解決の為、舞踏会に参加しない事があった。
 その晩も、新一が来ていなくて。パーティ好きの親友・園子も、参加しておらず。蘭はベランダで夜風に当たりながら、適当に時間を潰して帰ろうと思っていた。

 フッと、ベランダの反対の端に人影を感じ、思わずそちらを見た。新一との出会いを思い出してしまったからだ。けれどそこに立っていた男は、期待していた人物ではなく、蘭は再び溜め息をつきながら庭の方へ目を向けた。あの時新一と共に眺めた桜はすっかり葉桜になっており、梅雨が近い今の時期、夜の空気も湿気を含んで生暖かい。

 その男が蘭の方に近付いてくる気配を感じ、蘭は体を強張らせた。けれど、次の瞬間その男がうずくまったので、蘭はハッとしてそちらを見た。
 男は苦しげに胸を押さえている。
「大丈夫ですか?」
 苦しんでいる人を見過ごす事の出来ない蘭は、思わずその男に寄ってしゃがみ込み声をかけた。
「ちょっと眩暈が……君、部屋まで送ってくれたまえ」
 顔を上げたのは、蘭も見知っている男。蘭が初めて舞踏会に参加した際、蘭にダンスを申し込んだ相手、風戸侯爵家の御曹司・風戸京介子爵だった。
苦しんでいる筈なのに偉そうなその態度が何だか釈然としなかったが、蘭は仕方なく京介に肩を貸し、彼が指図するままに、休憩する為の部屋へと連れて行った。

 蘭は真っ直ぐな気性で、高貴な家柄のたしなみとして母親や乳母から性教育は受けていたものの。男性と親しく過ごした事も殆ど無く、男女で密室に入ると言う事がどういう意味を持つかもきちんと分かっていなかったし、弱った振りで女性を部屋に連れ込むような下種な男が存在するなど考えた事もなかった。

 蘭が、京介の望むままに寝台まで京介を連れて行った途端に、京介は蘭を寝台に引きずり込んで押さえ付けた。

「何をなさいます!?」
「ここまで来て、それはないだろう?風戸侯爵の跡継ぎから抱いて貰えるのは、身に余る光栄と思いたまえ」
「いやっ!子爵様っ!」

 京介の顔が近付いてくるのを、蘭は必死で顔を横に向けて避けた。空に新一の顔が浮かび、咄嗟に蘭は愛しい相手を呼んだ。しかし、「子爵様」という呼称では、京介には誰の事か通じていなかったのが幸いだったと言えよう。
 蘭は男爵家の娘、身分違いの侯爵家の御曹司相手であれば、一度きりの遊びでうち捨てられる可能性が高い。良くても愛人止まりである。
 蘭がまだ新一と知り合う前であれば、父の立場を思い、死ぬ以上の屈辱に耐え、この男に身を任せたかも知れない。
 しかし蘭は、既に新一と出会ってしまっていた。叶わぬ想いかも知れないと、半分諦めていたけれど、それでも新一以外の男に触れられるのは絶対に嫌だった。
 京介の手が蘭の胸元に入れられようとするのに耐えられず、蘭は、本気の空手技を使ってしまい……そして気付いた時には、京介は床に伸びてしまっていた。

 風戸侯爵家の御曹司・京介が、毛利男爵の娘・蘭に手を出そうとして、抵抗され気絶させられてしまった。
 事が公になれば風戸家に取っても色々な意味でかなり不名誉である事から、表沙汰にはされなかった。蘭が「公式に」訴えられる事も、その事実が公表される事もなかった。しかし、私的に毛利家に圧力がかかった。
 蘭の両親である小五郎も英理も、たとえどのような圧力を受けようともひとり娘を守る気であったが、蘭は悩んだ。

 事態を知った、鈴木伯爵家の園子から、蘭を預かると申し出があったが。手広く商売をやっている鈴木伯爵家は、人の出入りも使用人も多く、蘭を匿っている事がすぐにバレる恐れが高い。そして、風戸家は鈴木家より格上の侯爵家であり、バレた場合には鈴木家を窮地に陥れることになる。為に、蘭自身も小五郎も、感謝しつつもその申し出は断った。

 タダでさえ呑み助の小五郎が、この騒ぎのストレスの為か、酒の飲み過ぎでぶっ倒れて新出医師の往診を頼んだ際、ひかるが蘭の悩みを聞き。とりあえず蘭の身の安全を図る為に、新出医院で蘭を預かってはどうかと新出医師に打診し、人の良い新出は快くそれに応じた。
 蘭も小五郎も英理も、最初「迷惑になるのでは」と逡巡したが、「新出家は現在使用人もいないし、自宅の方に人の出入りも殆どないから、バレる心配はない」との言葉に、甘える事にしたのであった。
 毛利家も、「蘭が家出して行方不明になった」という口実で風戸侯爵家に言い訳し、現在は何とか追及を免れている状態である。

 蘭は、新出夫妻の好意に甘えつつも、万一、迷惑をかけるような事になりそうな時は、すぐにそこを去る積りだった。
 


 そして。
 蘭は新出家で思いがけず新一に再会する事になった。会えた事も、新一が蘭を覚えていてくれていた事も、天にも昇るほど嬉しい事だったけれど。新一は新出家に遊びに来ても、いつも、蘭には素っ気無い。


 新一が蘭を新出医師の妻と思い込んでいるなど、蘭も新出家の者達も知らない。だから、蘭は新一の態度を「関心は特にない女性に対しての、社交辞令的な優しさ」としか、受け取っていなかった。
 蘭は、この時代の女性として慎ましやかに育てられたし、新一とは身分の差もある。自分から行動を起こす、アプローチするなど、考えられる筈もなかった。

 まして、風戸京介の事もあるから、新一に近付き過ぎると迷惑をかけるのではないかと思い、怖かったのだった。

 


(伍)に続く

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<後書き>

 蘭ちゃんが、何故、新出邸に預けられる事になったのか。
 それには、こういった事情があったのでした。

 蘭ちゃんを手篭めにしようとする悪い男は、某映画の彼においで頂きました。彼は悪人ではあっても、こういった好色な人物ではなさそうですが、まあ、他に適当な人物が思い浮かばなかったんです(苦笑)。
 風戸京介氏はあえて、新一君より身分が上と設定しています。新一君には、蘭ちゃんの為なら、身分が上の相手とも果敢に戦って頂きたかったので。
 ちと・・・かなり現実離れしてしまうかも知れませんが、そこら辺はご容赦を。

 さて、こちらでの連載ですから、新一君と蘭ちゃんは、そういう仲になるのですが。それは次回あたりで。


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