むらさきの にほえる……



byドミ



(拾壱)君の名を呼ぶ



「あ……んんっ……はあっ……」

 新一の愛撫に、蘭の体は熱を持ち始める。ここ数日の「新婚生活」によって、蘭の感覚はすっかり開発されてしまったようだ。
 蘭は、理性も思考力も溶けてしまっていたが、それでも、新一がいつもと違う事に、気付いていた。

 蘭の体を辿る新一の指と唇の熱さ優しさは、いつもと同じ。けれど、今夜の新一は、いつもの熱い「囁き」がない。

 蘭の両足が抱えられ広げられ、蜜を湛えた蘭の中心部に、新一の熱い塊が押し入って来る。それに痛みを覚える事は、殆どなくなっていた。


「ああ……っ!新一様ぁっ……!」

 蘭は叫んで新一にしがみ付いたが、新一は動きを止めた。

「新一……様……?」
「様は、要らねえ」
「えっ……?」
「ただ、新一、と。呼んで、蘭」
「そ、そんな……!」
「呼んで」
「む、無理です!」


 この時代は、男尊女卑でもあり、新一と蘭とは、元々の身分の差もある。
 夫婦は同格だと言われても、つい数日前までは「子爵様」と呼んでいた相手を、名前で呼び捨てるなど、簡単に出来るものではなかった。

 新一は、大きな溜め息をひとつつくと、蘭の中から怒張したままの己を引き抜いた。

「し、新一様!?」
「オメーが様をつけずに呼んでくれねーのなら、今夜はこれで終わり」

 蘭は息を呑む。
 まだ、こういう行為での快楽は知り始めたばかり。けれど、熱が高まりかけたところで止められて燻ると、とても辛い状況だという事を、今の蘭は実感していた。
 新一の逞しい腕に抱き締められ、熱い塊で蘭の奥をかき回して欲しい。狂うほどに求めてしまうそれを、しかし、口に出せる筈もない。慎ましやかに育てられた蘭が、そんなはしたない事を言える筈もなかった。

 新一が、蘭に背を向けて横になった。その仕打ちに、蘭の目から涙が溢れる。

「何でそんな意地悪をなさいますの?」
「……蘭は、オレの妻だろ?」
「はい」
「オレの母さんは父さんの事を呼び捨ててるし、男爵夫人も男爵の事を呼び捨てている」
「で、でもっ!それは、元々の身分の違いが大きくないですし」
「オレも、最初はそう思って、長い目で見る必要があると考えたさ。けど、オメー、鈴木伯爵の次女を、呼び捨ててただろ?」
「え……?」
「園子さんは、伯爵令嬢なのに、オメーは呼び捨てていただろ?」

 蘭は息を呑んだ。まさかという思いが、込み上げて来る。


「あの……まさか、新一様、園子に焼き餅を?」

 背を向けたままの新一の肩が、ピクリと動いた。
 新一は何も言わなかったが、その沈黙が何よりも雄弁に新一の答を示していた。

 蘭は、驚き呆れていたが。同時に、微笑ましく愛しい気持ちがわき上がって来るのも、感じていた。新一のそういう子供じみたところが、妙に嬉しく思えてしまう。

『ど、どうしよう……殿方にこんな気持ちを抱くのは、可笑しいのかも知れないけど……新一様って……何だか、可愛い……』

 蘭は、新一の背中に、ぴっとりと張り付いた。新一の体が強張る。
 それが、新一にとってはどれ程に煽り立てられて辛い事なのか、蘭には分かっていない。無自覚に、無意識に、ただ新一を愛しく可愛いと思う気持ちのままに、行動しただけであった。

「園子は、大切なお友達です。あなたとは、違う。まだ子供だった頃から長い時間を共にして来たし……学友だから、身分の差をほとんど意識せずに済んだ所もあります。あなたより、園子が大切だって、そういう事じゃないのです」
「……」
「あの。頑張ってみますけど、なかなか難しいと思うので。時々で、許して下さい……あ、あの……新一?」

 蘭が、躊躇いを越えて、小声で呼んだのを。新一は、きちんと聞いていたようである。
 蘭がハッと気付いた時には、仰向けにされ、新一にのしかかられ、唇を塞がれていた。激しく唇を貪られた後、ようやく解放されたが、鼻先が触れ合うほどの至近距離から見詰められて、蘭の心臓は跳ね上がった。

「蘭。もう一度、呼んで」
「し……しん……いち……」

 蘭は、気恥ずかしさや抵抗を乗り越えて、必死でその呼び名を口にした。

「蘭!」
「あ……ああっ!!」

 蘭の中に、再び新一のモノが押し入って来る。蘭は思わず歓喜の声を上げて新一にしがみ付いた。
 新一の「妻」となったあの夜から、短期間の間に、すっかり淫らになってしまった事を、蘭は自覚していた。新一が蘭を欲しがっているのに勝るとも劣らぬほど強く、蘭も新一を欲しがっている。
 今も他の男から触れられるなど、嫌悪の対象でしかないけれど。新一には、蘭の奥深くにまで触れて欲しい、一つになっていたい。


「あ、ああ、ああ……新一……新一ぃ……あああん!」
「蘭……蘭……蘭っ……!」

 激しい動きの中で、快楽の海に溺れて、蘭は新一を呼び捨てにする事への躊躇いも、どこかに飛ばしてしまっていた。

「しん……いち……あっ……あああああっ……はあああああん!」
「くうっ……うっ……蘭!」

 蘭が背中を反らすのと同時に、新一のものが脈動し、蘭の奥深くに熱いものが放たれた。


   ☆☆☆


 事が終わった後。
 新一はいつも通り、蘭を抱き締めていた。

「蘭」
「はい?」
「……済まねえ。オレは、自分で思ってたよりずっと……心が狭いみてえだ……」
「新一さ……新一」
「ん?」
「わたしは、自惚れても良いのでしょうか?」
「蘭?」
「新一が、わたしをそれだけ想ってくれて居る故だって、自惚れてて……」
「ああ。自惚れなんかじゃねえよ。オレはきっと、オメーが思っているよりずっと、オメーの事を愛してる……」

 蘭は華のような笑顔を見せて、新一の胸に頬をすりよせた。

「わたし、幸せです。もしかしたら、この身が汚されて、とても新一の元へ来る事など、叶わなかったのかも知れなかった……でも、新一に愛されて、身も心も新一のものになれて……本当に、幸せ……」

 突然、新一を襲った恐怖感に、新一は身震いしていた。
 もしも、蘭が風戸の魔の手に落ちていたら。想像したくもないが、そうなった時に蘭が受ける苦しみを想うと、新一は自分の心臓が抉り取られるような思いだった。

 蘭が自分のものになった途端に、慢心してしまっていたと、新一は思う。たかだか、蘭が自分を呼ぶ時に様をつける程度の事で、こんな風に妬くとは、何と心が狭いのだろう。
 人妻であってもと焦がれていた蘭を、無垢のまま手に入れて、これ以上の幸せはなかった筈だというのに。園子にすら妬いてしまった自分自身に、呆れ果てていた。

「ごめん……蘭……」
「何を謝っておられるの?」
「いや……オレの心が狭くて、下らねえ事で妬いちまった……」
「焼餅を妬かれるのも、幸せなのだなと、思います……」

 妬いたり妬かれたり、そういう事すらも、場合によっては幸せなのだと。新一は蘭を抱き締めて、幸福感に酔った。


『そうだった……今はとりあえず、蘭の身の安全をはかれたと言っても、風戸との全面対決が終わるまでは、安心など出来はしない』

 新一は、改めて気を引き締めていた。

「蘭。オレも、幸せだ。この上なく、幸せだ。蘭がオレの腕の中に居て、オレの妻になってくれた事。そして何より……蘭が、幸せそうに笑っている……」
「え……?」
「もしも、もしも……オメーの身に何かあったら。オメーの心が傷付いたら。オレはきっと……オレ自身を失うより、辛い……」
「新一……」

 新一の激白とも言える言葉に、蘭は息を呑んだ。

「蘭。オメーは、ぜってー、生涯、オレが守る……誰にも、何者にも、ぜってー、オメーを傷つけさせはしねえから……」

 蘭は、風戸京介子爵がやっている事も、蘭がどのような目に遭わされようとしていたのかも、本当のところは知らなかったから。新一が、何に戦慄したのかも、分かっていなかったのであるが。
 新一が蘭に向ける想いが、どれほどに深いものなのかは、感じられて。驚きながらも、幸せに酔ったのである。


   ☆☆☆


 明治維新以降始まった戸籍制度に従い、工藤伯爵家の家長である工藤優作が届を出し、新一と蘭は結納を交わした日に、既に法的な夫婦となっていた。
 とりあえず、これで安心とは言えるけれど。古代以降、長らく途切れていた戸籍制度が、近代として始まったばかりの日本では。世間的に正式な夫婦と認められるのは、やはりまだ、戸籍ではなく、結婚披露宴である。

 新一と蘭の、結婚式披露宴は、日比谷大神宮にて、神前式にて執り行われる事になった。神前結婚式は、大正天皇が皇太子だった時代に行ったのが始まりで、当時の最新流行の挙式披露宴の形態だったのである。
 都市部では庶民も神前結婚式を行うのが急速に普及しつつあったが、貴族階級や金持ちでは、日比谷大神宮で挙式披露宴を行うのが、一種のステイタスになっていた。

 出席者は、親族・縁故・知人関係であるが。工藤伯爵家・藤峰子爵家・毛利男爵家・妃男爵家、全て「子供は一人」であった為に、親族は意外と少なかった。

「四家全てを存続させようと思ったら、蘭ちゃん、子供を沢山産まなきゃね〜♪」

 有希子に言われて、蘭は青くなり、新一は憮然とした。

「蘭は、子作りの道具じゃねえ!」
「あら、勿論、分かっているわよ、そんな事。私は願望を述べただけ。私は残念ながら一人しか産めなかったけど、子沢山賑やかな家族ってのも、楽しそうだなと思ってね。でもまあ、家の事は心配しないで。存続させたいのなら、養子を迎えれば良いだけの事なのだし」

 当時、家を継げるのは長男だけ。逆に言えば、次男坊以下は、良い家柄に生まれても、先が知れている。
 もし、どうしても後継ぎに恵まれなければ、良い家柄の次男坊以下を養子に迎えれば良いだけの事だ。その昔、羽柴秀吉が主君小田信長の四男を養子に貰い受けたように。


 双方、親族が少ない分、縁故知人関係の出席者が多くなる。
 蘭は、次々と、「工藤伯爵家や新一個人と縁の深い人達」に引き合わされた。その中には、警視庁の目暮警部や高木刑事も居た。

 そして。

「工藤。お前が女に夢中になる日が来るとは、ホンマ、驚いたで〜!」

 色黒の和装姿の若者が、新一の肩に手をかけ、馴れ馴れしく声をかけるのを見て、蘭は目が点になった。

「平次。ええ加減に、工藤さんにちょっかい出すんは、止め!蘭さんに迷惑やんか!」

 色黒の若者を、容赦なくどつきながら、怒っているように聞こえる強い口調で横から嘴を入れているのは、真ん中分けの髪を上の方でひとつ結びにしている、釣り目がちの大きな目をした、可愛らしい女性だった。

 目を丸くしている蘭に、新一が二人を紹介した。
 色黒の若者は、大阪府警察部長・服部平蔵の一人息子の、服部平次。女性の方は、大阪府警察部の、遠山刑事課長の一人娘で、遠山和葉。
 新一が手掛ける事件は、広域にわたるものもあり、その関係で知り合ったという事だった。最初は、新一と平次とは、お互いに反発もあったし、特に平次の方は新一に対して敵意むき出しの部分もあったが、事件解決に協力する中で、次第に、信頼関係を築いたのだという。

「工藤の結婚式や言うから、取るもんも取りあえず、大阪から駆け付けたっちゅう訳や」
「服部。出まかせ言うんじゃねえ」
「出まかせちゃいまんがな。ま、事件解決に協力する為っちゅう面も、あんのやけどな」
「だから!そっちが本来の主目的だろうが!」

 新一と平次の、やり合っているようで仲が良さそうなやり取りに、目を丸くしながら。蘭は、ふと気付いた事を口にした。

「事件って……何が起こっているのですか?」
「ああ。そら、あれやな。不正な貿易でボロ儲けしとる、かざ……」
「服部!余計な事、言うんじゃねえ!」

 新一が平次の言葉を遮って怒鳴ったので、蘭はビクリとした。

「ご、ごめんなさい……殿方のお仕事に、差し出がましい事を……」
「あ、い、いや、蘭!そうじゃねえんだ……オメーに怒った訳じゃねえ!」
「でも……わたしに聞かせるお話じゃない、そういう事でしょ?」
「だ、だからっ……そうじゃなくて!」

 焦る新一の姿に、蘭は目を丸くした。新一に、何か隠し事をされている、それは直感だった。

 新一は、大きく息をつくと、空を仰いだ。観念した様子で、話し出す。

「えっと……蘭、オメーが、少しばかり関わりのあった、風戸侯爵家だけどな。あの家は、身分は非常に高いが、事業がおもわしくなく、台所事情が非常に悪かった。で、身分が高くて、積み荷が詮索されないのを良い事に、普通は許されない密輸品の貿易で、利益を上げ始めたんだよ」
「密輸……?」
「ああ。蘭は、阿片(アヘン)の事を、聞いた事があるか?」
「ええ、少しばかり。麻薬、なんですよね……それで廃人になってしまった方も、居るとか……」
「風戸家では、大量の阿片密輸をしている疑いがある。けれど、身分が高いから、迂闊に捜査の手が入れられない。父上とオレ、それに大阪府警察部の協力も得て、水面下で捜査をしている最中なんだ。そして、そういった後ろ暗い事を中心になって進めているのは、風戸家長男の、風戸京介子爵であるらしい」

 蘭は、身震いした。
 あの風戸京介子爵は、人を踏みつけにしても何とも思っていないのだろうと感じた。と言うよりも、自分より身分が下の者達の事を、人間とも思っていないような感じだった。

「……そして彼には、妻殺しと舅殺しの嫌疑も、かかっている」
「奥様?亡くなったのですか?」
「ああ。風戸京介子爵は、身分はないが資産家の娘を、娶った。そんだけ、風戸家の台所事情が苦しかったって事だろうな。けれど、最初は奥さんの父親が、次いで、奥さんが、謎の死を遂げた」
「……!」

 蘭は、思わず息を呑んだ。

「たとえ侯爵の後継ぎであろうと、人殺しが許されている訳ではない。ただ、身分がある相手だから、警察も腰砕けになって、捜査もままならない。
 オレとしちゃ、密輸の件を調べるのと同時進行で、そっちの方もキッチリ証拠を揃え、逃さぬように突き付ける積りだ。で、服部達の協力を得て、捜査を続けている」
「……まあ、そういうこっちゃ。何や、工藤、風戸の件は、姉ちゃんに隠したい事情でもあったんかい?」
「いや、まあ、その……」

 新一が、苦々しげな顔付きで、しどろもどろに言った。
 蘭としては、新一が、「人を踏みつけにするような男から狙われていた」事を、蘭に告げるのを憚ったのだろうと納得し、それ以上追及するのは、止めにした。

 新一が、風戸の件で、蘭にもう一つ隠していた事を蘭が知るのは、まだ少し先の事になる。

「平次、そもそも、他の人には秘密にしとかなあかん捜査の内容を、ベラベラ喋ったんがアカンのとちゃう?」

 横から、和葉が容赦ない口調で突っ込んだ。

「アホ。いくらオレかて、喋ってええ相手とアカン相手とは、選んどるわ!姉ちゃんは、工藤が見込んで連れ合いに決めた女や。せやから、話してかまへん思うたんや」
「和葉ちゃん、済まねえ。今回の件は、オレに一番責任がある。オレが、服部にもきちんと話してなかった事情もあったから」
「何や工藤、オレに隠し事があったんかいな。水臭いやっちゃ」
「……蘭、この二人に話しても構わないか?」

 新一が、蘭を振り返って問うて来た。蘭は、笑顔で答える。

「新一が……いえ、新一様が信頼なさっている方達なのでしょう?構いませんわ」

 新一も蘭に微笑み返すと、平次に向き直って言った。

「実は、風戸子爵が、蘭に狼藉を働こうとして、拒まれた事があってな。風戸はその件を、今でも逆恨みしていて、蘭のお父上・毛利男爵に、蘭を差し出せと迫っていた。でまあ……それがなくても、オレは蘭を嫁に貰う積りでは居たんだが、正式にオレの妻になった女を差し出せとは、風戸も言えない筈だからと、急遽の縁談成立となった訳だ」
「成程やな。……工藤、そういう事情やったら、尚更ヘタ打てへんな。キッチリ、カタつけんと、アカンで」
「ああ。わーってる」


 その後、難しそうな話をしている新一と平次には、お茶を出して、ゆっくり語り合って貰う事にして。蘭は和葉を誘い、遊びに来た園子と共に、女達だけのお喋りに興じたのであった。


 風戸の「人身売買」の件を知らされていなかったのは、蘭だけではなく、実は和葉もで。
 後に、それを知った和葉と蘭が起こした行動は、平次と新一の頭を痛めるに充分なものだった。そもそも、二人が何かを仕出かしそうだと分かっていたからこそ、黙っていた新一と平次だったのである。

 


(拾弐)に続く

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<後書き>

何か、新一君がすごく情けなくなって、ごめんなさい……。
蘭ちゃんに、「新一」って呼ばせたかったんです。

このお話の設定だと、どうしても。正式な夫婦となっても蘭ちゃんは、ベッドの中でも「新一様」としか呼ばないような気がして。
で、無理無理、こういう事にさせてしまいました。

さて、当初誤魔化す予定だった新蘭の「結婚式」、一応、時代背景など調べて行く内に、驚くべき結果が。
古来からの挙式形態と思われていた、「神前結婚式」が、何と、明治時代に、皇太子だった大正天皇が行って以降始まった、「新しい挙式形態」であったとは!しかも、欧米で主流だった「キリスト教式挙式」にならって、開始されたものだったとは!

あくまで「似非大正ロマン風」なんで、あんまり現実的にしたくない……と思いつつ。やっぱ、調べたら使わずには居られませんしねえ。

さて、このお話も、そろそろ終わりが見えてまいりましたが。
蘭ちゃんと和葉ちゃんの二人は、意外と無鉄砲ですから、二人揃えば、そらもう、最凶(?)。彼氏達の苦労も、並大抵ではないのです。

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