むらさきの にほえる……



byドミ



(壱)美しい人妻



 伯爵令息の工藤新一が、医師である新出智明と親しくなったのは、ある殺人事件がきっかけである。

 新一は工藤優作伯爵の一人息子で将来は伯爵位を継ぐ身である。しかし貴族の御曹司という身分でありながら、事件と聞けばすっ飛んで行き、探偵の真似事をやっていた。
最初はそれを目障りに思っていた警察連中も、工藤新一の力で迷宮入りしそうな事件が幾つも解決されて行く中で、見る目を改めた。ついには、警察の手に余りそうな難事件となれば、まず新一へ連絡を入れるようになった位である。

 新出智明は、優秀な上に心優しい医師で、しかも、女性関係が絶えず正妻に苦労をかけ通しだった父親とは違い、真面目で浮いた噂一つない好青年である。優しいが言うべき時はキッパリとものを言う、正義感の強い彼は、最初は探偵というものを胡散臭げに見ていたものだった。

 工藤新一が出席していた、ある舞踏会で。心臓発作で突然死した貴族がいた。智明は、たまたま病弱なその貴族に主治医として同行していた。
 病死した貴族の奥方は、医師である智明が傍に付いて居ながら発作を防げなかったとして智明を詰った。
 しかし貴族の死因は心臓発作でも、それが計画された殺人事件であった事、そして奥方が犯人であった事を、工藤新一が見抜いたのである。
 智明は、探偵とは謎解きだけに心を奪われ、人の心など何とも思わない気遣いのない人種と思っていた。警察も殺人犯を検挙する事だけに血道をあげる、弱者の事など顧みない冷たい官僚だと思っていた。
だがその時の新一や、新一と親しい目暮警部の言動に、少なくとも一部には、医者とは方向が違うものの、人の心と命を大切に思う、気遣いと正義感に溢れる人達も居るのだと、考えを改めるに至った。

 事件が解決した後、新出智明は工藤新一を自分の家に招待した。新一は喜んで応じたが、そこで思いがけない出会いが待っているとは、夢にも思っていなかった。

「今ちょっと妻が臥せっていましてね。何のお構いも出来ないと思いますが」
 馬車から降りながら、智明が言った。
「奥方が具合が悪いのに、押しかけたりして良かったのでしょうか?」
「いや、そう大した事では。それに妻は私が友達を連れてくる事をとても喜んでくれますから。手料理は男の無骨な料理ですみませんが、我慢して下さい」
 そういった会話を交わしながら二人は家の門をくぐった。彼の父の代に開設した新出医院の続きの建物で、二階建ての、その時代としてはまあまあ立派な家である。
「立派なお屋敷ですね」
 新一がそう感想を述べると、智明は苦笑した。
「貴族の御曹司が何を仰る。病院と一緒になっていますし、あちらの棟は看護婦が寝泊りする部屋になっているのですよ。私達家族だけのスペースはそれ程でもありません。と言っても、一般市民の方々から見れば充分に贅沢なスペースである事は承知していますがね」
 智明は玄関の鍵を開けながら話を続けた。
「一時は賄いの方を頼んだりしていたのですが、結婚してからは妻が看護婦として頑張るかたわら、家事一切を取り仕切ってくれまして。
ただ、一生懸命なのは解るのですが、結構おっちょこちょいでしてね。少し負担が大きいようなので、またお手伝いの方を頼もうかと思っているのですよ。
今我が家は、妻と私の二人家族です。あ、それと今、ちょっと訳ありで預かっている方が……」

 その時突然、家の中で女性の悲鳴が上がった。
 咄嗟に新一は声がした方へ駆け込んで行った。
「どうしました!?」
 新一が駆け込んだのは、台所と思しき所。そこに髪の長い女性がうずくまって震えていた。
「あ、あああ……お化けが……!」
「お化け!?」
 その女性が顔を伏せたまま震える指先で指し示す方を、新一は見た。窓の外に、仄かに光るものが確かに見えた。
「ああ。あれは、特殊な塗料で夜間も仄かに光るようになって居るんですよ」
 ようやく台所に到着した新出智明が、そう言った。
「塗料?」
「ええ。驚かしてすみません。それより蘭さん、寝てなくて良かったのですか?今日は少しばかり熱があって具合が悪かったでしょう?」
「でも……せめてお食事位は作らないとバチが当たると思って……あ、あの……」

女性が顔を上げた。新一の身に衝撃が走る。
大きな黒曜石の瞳、桜色の唇、艶やかな長い黒髪。あどけない美貌を持ったその女性は、新一が知っている女性、毛利男爵のひとり娘・蘭だった。
新一は、悲鳴を聞き、長い艶やかな黒髪を見た時から、もしやと思いながらも「ここに蘭が居る筈がない」と否定していた、いや、否定したかったのである。
「工藤子爵、こちらは……」
「毛利男爵家のご令嬢、蘭さんですよね」
 紹介しかけた新出医師の言葉を遮って新一がそう言うと、蘭の面が赤くなった。

「あ、あの……工藤子爵様。私の事を覚えていて下さったのですか?」
「オレは、一度見た人は忘れない性質なんでね」

 そう言いながら、新一の胸に苦いものが満ちていく。

『……まさか、もう人の妻になっていたとは……』

 新一が蘭と初めて出会ったのは、三ヶ月ほど前の舞踏会であった。新一は蘭に強く心惹かれ、それからは苦手な舞踏会にも出来る限り通う日々だった。
 蘭とは必ず会えるとは限らなかったが、蘭がいれば新一は必ず蘭をダンスに誘った。いずれ毛利家に正式に申し入れをと考えていたが、このひと月程、蘭と舞踏会で出会う機会はなく、新一はヤキモキしていた。
今日も蘭と会いたいが為に参加した舞踏会だったのに、まさかこのような形で再会するとは、新一は夢にも思っていなかったのだ。

   ☆☆☆

「蘭様、そのような事、私がしますのに」
 そう言って台所の入り口に立ったのは、髪が短い女性だった。顔色が悪く、具合が悪そうなのは一目で見て取れる。
「ひかるさん、でも……具合が悪いあなたを台所に立たせられないわ」
「でも、私のこれは、病気と言う訳ではないですし。蘭様こそ、風邪で具合がお悪いのに……」
「病気じゃないと言っても、今が大事な時期でしょう?私の方は、早くにお薬を頂いて、もう大分具合も良いから、大丈夫です。あ、でも……」

 蘭はそこで少し考え込んだ。
「あの。ひかるさん。もしかして、大切な旦那様のご飯を他の女が支度するのって……迷惑でした?」
「いえ!そのような事!ただ、蘭様は大切なお客様ですし、お手を煩わせるのは……」
「私はただの居候よ。新婚家庭に転がり込んで、本当に申し訳ないと思っています。それに、ひかるさんにもし何か遭ったら、悲しむのは新出先生でしょ?それに……今日はお客様ですし……」
 ひかるは、ちょっと首を傾げた後、悪戯っぽい目付きになって言った。
「蘭様。もしや、今日のお客様は、蘭様のイイ方なのですか?」
 蘭は目に見えて狼狽した様子で真っ赤になった。
「滅相もない!あの方は、私などの手の届くような方ではありません。私が一方的にお慕いしているだけで……!」
「わかりましたわ、蘭様。今夜はお客様の為に、存分に蘭様の腕を振るって下さいませ」
 ひかるが笑顔でそう言った。

   ☆☆☆

食事の支度が出来るまで、新出医師と新一とは、将棋の手合わせをしていた。
「……王手!」
「くっ……そこに来るとは……参りました、完敗です」
「新出さん、まさか手を抜いたりはしていませんよね?」
「そのような失礼はしませんよ。いや本当に、完全にしてやられました」
「新出さんは多分すごく強いのだろうけど、差し手が素直ですからね。オレの場合、かなり変則的な手を使いますし」
「いや、負けは負け、素直過ぎる手など、勝負では言い訳にもなりはしません」

『いや。オレはあなたに、もっと大切な勝負で最初から負けちまったんだよ……』
 新一の胸を再び苦いものが満ちた。将棋の勝負に勝ったところで、何の足しにもなりそうにない。
「あの……先生……食事の支度が整いました」
 二人が将棋をしていた客間に顔を覗かせて、そう告げたのは、髪を短く切った女性であった。

「ひかるさん。寝ていないと駄目じゃないですか」
「大丈夫です先生、無理はしません」

 ひかるがどういう人物か分からず新一が戸惑っていると、新出医師がひかるを引き合わせた。
「ひかるさんは、父の手伝いをしながら医師の修行中だった私の、最初の患者だったのが縁で知り合って。長い事、住み込みのお手伝い兼看護婦をして貰っていました。ちょっと今は体調が思わしくないので、看護婦の仕事は休んで貰っていますが」
 新一が、いつもの判断力を保っていたならば、この時の新出医師の優しい瞳やはにかんだ様子に、すぐに真実を知る事となったであろうが。先程の蘭との思いがけない再会で、思考能力がほぼ皆無に等しい状態になっていた新一は、迂闊にも何も気付かなかった。

 新一達は食堂へ移動し、そこで、蘭が腕を振るったご馳走を頂く事になった。席に着いたのは、新一と新出医師だけである。
「あの、奥方は同席されないのですか?」
 新一が女性二人に目を向けて言うと、新出医師が答えた。
「我が家では、男女同席して食事を頂いておりますが、今日はお客様がおられますし」
「だが……」
「それに、今日は妻の具合が思わしくないので、失礼させて下さい」
 新一はそれに納得するのと同時に、新出医師の「妻」への気遣いに、キリキリと胸が痛むのを感じていた。何故もっと早くに蘭にアプローチしなかったのだろうと、埒もない事を考える。
 食欲はない、と思っていたが、美味しそうな香りに誘われ、新一は箸をつけた。
「美味い!」
 新一は思わず舌鼓を打ち、賛嘆の声を上げた。普段美味しいものを食べつけている筈の新一の舌にも、それはとても美味しく感じられた。

「蘭様は料理上手ですけど、今日は特に、愛情という隠し味がたっぷりですから。ね、蘭様?」
「ほう?成る程、そういう事ですか」
 新出医師が微笑んで意味あり気に蘭を見やった。
「ひかるさん、それに先生まで!わ、私はただ、子爵様が先生にとって大切なお客様のようだから……!」
 真っ赤になってむきになる蘭の姿を、新一は表面上笑いながら、苦い想いを噛み締めつつ見やったのであった。

☆☆☆

新一と新出医師は、食後、酒を酌み交わしていた。
女性二人はもう下がって休んでいる。
「新出さん、奥さんに『先生』と呼ばれているのですか?」
「最初の出会いが、医師と患者としてでしたから、どうしても呼び方が変わらないですねえ。それに、私と妻とは、まだ正式に結婚式も挙げていないのです」
「と言うと?」
「家柄が違うと、猛反対を受けていましてねえ。早く何とかしたいものですが」
 新出家は名門だが、貴族ではない。やはり、男爵家のひとり娘を簡単に娶ったり婿入りしたりする訳には行かないのだろうと、新一は思った。

『そうか。蘭はまだ、正式に新出さんの妻になっていない……という事は、望みはあるか?』
 新一の心に、一筋の光明が射した。
 そもそも、蘭が新出医師の妻であるという思い込みが誤解だったのであるが、新一も他の誰も、新一の勘違いには気付いていなかったのである。


(弐)に続く



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<後書き>

このお話は。
同人誌にする積りで書きかけていたのですが、諸事情から断念したものです。

コンセプトは「人妻蘭ちゃんを恋うる新一君」。
と言っても、いきなり1話からネタバレしちゃってますがね。新ちゃん1人が勝手に勘違いしているという、とてもお間抜けなお話になってしまいました。

いや、本当は、ネタバレはもっと後で、と思っていたのですが。ドミの傾向を知っている筈の読者様でも、やっぱり耐えられないかも知れないと思いまして(汗)。

もうひとつのコンセプトは、「愛人(!!?)生活」新蘭逆バージョンだったりします(笑)。

タイトルは、万葉集の歌から取りました。大海人の皇子が、額田王に当てた返歌、という事になっている和歌です。

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