久遠の一族



byドミ



第3章 募る想い



「蘭!蘭ってば!」

毛利蘭は、帽子を持ってボンヤリしているところに、声をかけられた。

「どうしたの、ボンヤリして?」
「ウン……今ね、帽子が風で飛ばされたんだけど……」
「……蘭が今手に持ってる帽子、違うの?」
「そうじゃなくて。風に飛ばされたのに、何故か、上からポトンと、落ちて来たの」
「はあ?そんな事って、あり?」

子爵令嬢である蘭は、今年十六歳。
今は、上流階級の女子が多く所属している、寄宿学校にいる。
学校で習うものは、退屈な、良い家の女性としてのたしなみや、礼儀作法などが中心だが。
語学や文学芸術、乗馬術・ダンスなど、蘭にとって興味深いものも、多くあった。

学校での制服は、グレーの長い袖に長いスカートのワンピースで。
白いベレー帽が、トレードマークのようになっていた。

「あら、マリー、知らないの?蘭の不思議」
「何よ、その、蘭の不思議って」
「蘭の身の回りでは、さっきの帽子のような、小さな奇蹟が、よく起こるって事」
「そうなの?」
「そうよ。もう、ずっと。ね、蘭?」
「蘭の傍にはきっと、目に見えない天使がいるに違いないって、みんな思っているわ」

蘭はただ、風が通り過ぎた先を、じっと見つめる。
こういう事が起こる度、蘭の胸に浮かぶのは、幼い頃に出会った、ある男性の面影だった。


蘭が小さい時、母方の実家に行った帰り、蘭の乗る馬車が、賊に襲われた事があった。
馬車には、母親の実家から受け取った値の張る贈り物があったが、賊は更に、毛利子爵の一人娘である蘭を人質にして、多くの金品を得ようとしていたようである。

しかし、突然現れた若者が、賊達を倒し、蘭を助けてくれたのだった。

蘭は、大人達に、どうやって助けられたのか訊かれたけれど、「見知らぬ人が来て、賊を倒して縛り上げて、さっさと去って行った」としか、言わなかった。
事実、それだけの事であったのは、間違いがない。
ただ、蘭は、約束を守り、その「見知らぬ人」の風貌や名前は、「知らない・わからない」で押し通していた。

賊達も、すぐに気絶してしまった為、自分を襲った相手の事は、殆ど何も分からない状況だった。
大人達は、それなりに調べていたようだが、真実は分からないまま、諦めるしかなかった。
多分、幼い少女への好意で助けてくれたものの、自身、表に出られないような事情を抱えている人物であろうと、結論付けられた。

蘭の父である毛利小五郎子爵は、とにかく蘭が無事であったのだから、それで良いと思っていたようだ。


しかし……蘭の胸の中で、助けてくれた若者・工藤新一の面影は、消える事がなく、それどころか、時が過ぎるにつれて、より鮮やかになっていった。

『十年経って、オメーが十七歳になった時、オレの花嫁に』

新一が言ってくれた言葉を、幼い頃は素直に信じていられたが。
今の蘭には、分かっていた。
あれは、幼い蘭を納得させる為の戯言に過ぎなかっただろうという事が。

最近調べたところでは、米花の館は、元々、名のある貴族の持ち物だったけれど、もうずっと長い間、無人のまま放置されているという事だった。
今頃あの青年は、相応の妻を得て、幸せになっているかもしれない。
それでも蘭は、新一への思慕を諦める事が出来なかった。

そして。
あれ以来、蘭の周りには、今回の帽子のような、ささやかな奇蹟が多く起こるようになった。
そしてその度に、蘭の胸には何故か、新一の面影が浮かぶ。
何となく、彼がずっと蘭の傍にいて、見守ってくれているような、そんな錯覚を覚えるのだ。
そんな筈などないと、分かっているのに。


『わたしは、もうじき、後一年もしないうちに、十七歳になる。あの人の花嫁になるって約束した歳に……」

蘭は、十七歳の誕生日を迎えたら、米花の館を訪れる事に決めていた。
本当に諦めてしまうのは、それからでも遅くはない筈だ。


   ☆☆☆


それから間もなく。寄宿学校にいる蘭は、毛利子爵の館に呼び戻された。
蘭を正式に社交界デビューさせる為である。

「おお!しばらく見ない間に、見違えたぞ、蘭」
「本当に。社交界デビューすれば、きっと、多くの殿方から誘われる事でしょう」

蘭の両親は、美しく成長した蘭を、笑顔で出迎えた。

蘭も、久し振りに両親に会えた事は嬉しい。
しかし、社交界デビューという言葉が、蘭の心を重くしていた。

上流階級において、社交界への参加は、必要不可欠の事。
それ自体が嫌なのではない。
ただ、その先にあるものが分かっているだけに、蘭の心は重くなる。

蘭は、久し振りに入った自分の部屋の窓から、外を見上げた。
煌々と照る月は、あの晩の事を思い起こさせる。

「新一お兄さん……」

月を見上げながら蘭が呟き、涙した事は、誰も知らない。

筈、だった。

蘭の部屋の前にある、木の上で。
蘭の呟きを聞いて、心躍らせている者が居るなど、蘭自身、想像すらしていなかったのだ。


   ☆☆☆


社交界デビューした蘭は、たちまち、評判になった。

艶やかな黒髪、菫色がかった黒曜石の瞳、柔らかそうな桜色のぽっちゃりした唇、清純な可愛らしい美貌と、すらりとスマートなのに、豊かな胸という、理想的なスタイル。
それに加え、堂々とした態度、動作の優雅さ、礼儀正しさ、優しく甘い声……全てが、男性を魅了する。

舞踏会に参加すれば、ダンスを申し込む男性の列。
その踊りがまた優雅で、見ている者を惹きつけた。

そして、蘭の、優しい偉ぶったところのない態度と、嫌味のない清純さは、女性陣からの評判も良かった。

しかし。
女性に人気の高い、ハンサムな男性、スマートなエスコートの男性、色々な人からダンスの誘いを受けても、蘭の心は一向に弾まない。

『彼は、結構、良い服を着ていたように思うけれど。こういった場に参加するような身分の方では、ないのかしら?』

蘭は、もしかして彼がいないかと、無意識の内に探してしまう。
供の者もつけず独りで動くような手だれの男性が、そこまで身分があるとは考えにくいけれど。
どうしても、期待してしまうのだ。


「どうした?疲れたのか?」
「え……?」

曲が終わったらしい。
蘭は、踊っていた相手から言われて、無意識の内に頷いた。

「庭で少し風に当ろう」
「え、あの……」

イザーク・ライツ子爵令息と名乗る男は、蘭の肩を抱くようにして、ホールの端の方へと進んで行った。

肩に手で触れられて、蘭の体が、ぞわりとする。
嫌悪感で。

蘭は、イザークの腕から逃れるように、身をよじると、自分からさっさと庭園の方へと歩いて行った。

庭園には、結構人がいた。
外の空気を吸ったり……中には、身を寄せ合う男女の姿も見られて、蘭はぎょっとする。

突然、イザークの手が蘭の肩を抱き寄せ、顔が近付いてきた。

「い、嫌っ!止めてっ!」

蘭は抗う。

「もしかして君、まだキスも知らないの?ふふ、可愛いなあ」

肩や背中に回された手の感触が気持ち悪い。
イザークの抱きしめる力は意外と強く、もがいても段々顔が近付いてくる。

「助けて!新一お兄さん!」

蘭が思わず叫ぶと。
次の瞬間、蘭を拘束していた手の力が弱まり、その場にイザークが、どさりと崩れ落ちた。
イザークは気を失っていた。

「な……何が……」

蘭は呆然とする。
次いで、もしかして拙い事になってしまうのではと、不安になった。
すると、その蘭の心の声を読んだかのように、耳元で声が聞こえた。

「大丈夫。その男、今の記憶は消してあるから、お前が罪に問われる事はない」

聞き違えようのない、しっとりとしたテノールの声。
蘭はハッと振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。

思わず、蘭は駆けだしたが。
ドレスの所為で、あまり上手く走れない。
庭園には、あちこちに男女がいるけれど、蘭が求める姿は、ついに見つからなかった。


   ☆☆☆


それから後も。
蘭が、男性に迫られて困っている時、嫌な思いをしている時に、助けが現れた。

あれ以来、蘭は「声」を聞く事はなかったし、姿を見る事もついぞなかったが。
気絶した男はいつも、蘭に迫った時の記憶を、その少し前辺りから、なくしており。
蘭に疑いの目が向けられる事は、なかった。

『あの人はいつも、わたしの傍に、居てくれている……』

それは、ほぼ確信になっていたけれど。
でも、姿を見せてくれないのが、悲しい。

「会いたい。会いたいよ……」

十年近く前に、一度会ったきりの相手。
今迄も、会いたいと思っていたけれど、まだ仄かな気持ちだった。
しかし、確実にその気配を感じ始めてから、会いたい気持ちが、より強くなって行く。

彼はどうして、姿を見せてくれないのだろう。
蘭がこんなに、待っているというのに。

『もしかしたら。わたしが……十七歳の誕生日を迎えて、米花の館を訪れるまでは、会ってくれる気がないの……?』

蘭は、きゅっと唇を噛んだ。

十六歳になった蘭は、あの時新一が言った「オレの花嫁に」という言葉の意味を、充分に理解している。
再会を望むという事は、同時に、蘭の全てを、蘭の純潔を、彼に捧げるという事なのだろう。

蘭は、男性から迫られた時の、嫌悪感と。
一度だけ耳元で声を聞いた時の、嫌悪とは全く異なるゾクゾクした感覚を、思い起した。

『あの人だったら、構わない。わたし……』

たとえ、彼に本来の意味での「妻」がいて、蘭がひと晩きりの花嫁であったとしても。
それでも、構わない。
蘭は、そこまで思い詰めていた。

窓辺で、空を見上げる。
今夜は、新月で、真っ暗だ。
その代わり、降るような星空が広がっている。
星を見上げて、蘭は愛しい男性の事を想った。

目の前の木の上に、蘭をじっと見詰める視線がある事に、かけらも気付かないまま。


   ☆☆☆


工藤新一は、毛利邸の木の上から、じっと、少女を見詰めていた。

初めて出会ったあの時から。
ずっと、少女を見詰め続けて来た。
時には、陰から少女を助ける事も、あった。

子供だった彼女は、確実に、美しい女性へと変化して行っている。
それと同時に、新一の中でも、変化が生まれていた。

少女が幼かった頃は、ただ、愛しく守りたい存在であっただけ、の筈だったのに。
少女が二次性徴を迎え、体が丸みを帯び胸が膨らみ始めた頃、守りたい幼い少女は、触れて全てを奪い尽くしたい「女」に、変わって行ったのだ。

少女に触れようとする不埒な輩を退けた後などは。
そのまま少女をかき抱き、さらって行って、我がものとしてしまいたい衝動に、駆られてしまう。

初めて会った時に、「十七歳になったら、オレの花嫁に」と告げた時は、ほんの戯れ・果たされる事がないだろう約束の、積りだった。
あの時は正直、蘭が成長した時の事を、真剣に考えてはいなかったのだ。
何しろ、自身がヴァンパイアで、時が過ぎても変化しないのだから。

将来、美人になるだろうとは、思っていた。
しかし、ここまで自分を魅了する存在になるとは、想像していなかった。

否。

本当は、初めて会った時から、少女に心囚われていた。
百年以上生きて来た自分が、女性に心惹かれた事などなかった自分が、幼い少女に、一瞬で心囚われたなどと、自覚していなかっただけだったのだ。

新一は幼い蘭に「女」を感じ、最初から「欲しい」と思っていた。
しかし、少女への愛しさ故に、新一は自分の欲望に蓋をした。
そして、蘭が大人になり、自ら新一を求めるまで、自分自身に枷をはめようと、「十七歳になったら」という約束を、したのだった。

生殖不可能なヴァンパイアにも、何故か性欲はある。
異性に触れたいという欲望がある。

そして、ヴァンパイアの神通力を使えば、人間を操り、想いを遂げる事は、簡単なのだ。

人間の中には、当人も知らないままに、ヴァンパイアの花嫁・花婿となっているケースも、ある。
ヴァンパイアが、仲間に入れようとまでは思わないが、気に入った異性を、殺さず長く楽しむ相手として、選ぶ事があるのだ。

ターゲットとなった人間は、血を吸われると同時に貞操も奪われ、しかもその記憶は消されているので、何も気付かないまま、生活を送っている。
時々、首筋に虫刺されのような赤い痣ができ(ヴァンパイアの噛み痕は、すぐに消えて赤い痣が残る)、貧血になる事が多くなったのを、不思議に思いながら。

だから新一も、その気になれば、愛しい少女の体を手に入れる事は、容易い。
けれど、愛しく思うがゆえに、当人も知らないままに体を奪う事は、出来なかった。
どんなに、荒れ狂う程の欲望が起きようとも。

「蘭……」

不思議だった。
人間であった頃も、ここまで「女性に触れたい」という欲望を抱いた事は、ない。

ベルモットとは、何度も褥を共にしたが、誘われれば体が反応しただけで、自分から抱きたいと思った事は、強烈な欲望を感じた事は、一度もなかった。
そのベルモットの誘いにも、蘭と出会ってからは強く拒絶して、全く応じなくなった。

ヴァンパイアにも、心臓はある。
だが、人間のように脈打っている訳では、ない。
女性に欲望を覚えた時の反応も、人間だった頃のようなものとは、異なっている筈だった。

しかし、新一は、蘭の姿を見たり、蘭を想ったりすると、人間であった頃すら感じなかった「血が逆流し下半身に集まる」感覚を、覚える事がある。
あの白い肌に触れ、中心部を押し開き、己の楔で穿って、一つになりたい。

以前は、時々訪れる眠りの中で、父母の夢を見る事が多かったが。
いつ頃からだろう、今は、夢の中でいつも、蘭を抱いていた。


蘭が十七歳の誕生日を迎えた時、もしも、約束を果たそうと、米花の館を訪れたなら、その時は。
ヴァンパイアと人間という、未来のない関係であろうとも、新一は蘭を我がものとするだろう。


蘭の十七歳の誕生日は、もう、間もなくだった。



第4章に続く


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