期限付きの恋人



(4)契約



byドミ



蘭が、初めて工藤新一を見たのは、テレビ画面でだった。
高校生探偵として、華々しい活躍をしている彼は、蘭にとって、同年代だが遠い世界の人だった。

蘭の父親である毛利小五郎は、若い頃は警官だったが、退官した後は探偵をやっていて、事務所を構えている。
そして蘭は偶然に、事件現場で、工藤新一と顔を合わせた事があった。

テレビ画面の中で見る彼とは違い、事件現場では地道に細かい事まで観察していたり、人の命を最優先したり、さり気なく他人に気遣いをしたり・・・そういう新一の姿を、知る事になった。
蘭は直接新一と言葉を交わした事は、殆どない。

いや。
一度、蘭が事件現場で気付いた事を、口に出した時。
父親も警察官も取り合ってくれなかったのに、新一だけが真剣に聞いてくれた。
そして、事件が解決した時、

『君のお陰で助かったよ。ありがとう』

と、笑顔で言われたのであった。



その時以来、蘭の心に、仄かな想いが生まれた。
けれど、その気持ちが育つ前に、大学に進学した蘭は、新一と出会う機会もめっきり減ってしまったのである。

新一は、探偵活動は変わらず続けている様子だが、マスコミには滅多に姿を見せないようになった。


蘭は、何度か告白された事も交際を申し込まれた事もあったけれど。
その度に、心に浮かぶ面影があり、どうしてもその気になれず、断り続けて来た。


まさか、あのような場所で再会するとは、思わなかった。
探偵は、続けているようだけれども、新一にどのような訳があって、あの仕事をやっているのだろうか?


『チャーミングな方は、1回見たら忘れませんよ。こちらの方は、また、とても素敵な方だが、初めてお会いしましたね』

ホストクラブ「ナイトバロン」で初めて会ったホストとしての彼は、蘭にそう言ったのだが。

『嘘つき。私が素敵な方だなんて、チャーミングな方は1回見たら忘れないなんて。私の事なんか、全く覚えていなかったクセに』

その時の「コナン」の歯の浮くようなセリフは、客商売としてのものだと、蘭は思っていたから。
園子が危惧するように、ホストとしての彼の口車に乗せられて、幻想に恋をした訳ではない。


新一は、蘭の事など、覚えていなかった。
だからこそ、蘭は新一が何を考えて「恋人ごっこ」の提案をして来たのか、分からなくて戸惑っていた。



そろそろ、大学に行く時刻だ。
蘭は、念入りに身支度を整えた。

今日は、青木助教授の主催による、公開ゼミが開催される。
そして・・・新一が蘭の通う大学に来て、青木助教授の前で芝居をする約束の日でもあった。

偽りの関係ではあっても、新一の恋人として過ごすのだと思うと、自然と身支度に気合が入る。


新一は、どういう風に現れ、どういう風に芝居をするのか、全く聞いていない。
ただ。

『オレが何をしても、平然と受け流してくれねーか?』

彼はそう言った。
それがどういう意味なのか、分からない。
けれど、青木助教授に隙を見せない為には、新一がする事をそのままに受け容れるしかないと、腹を括った。



新一は、今回、青木助教授の公開ゼミに、正式に「参加」する事になっていた。

その場では、お互いに「新一」「蘭」と呼び合い、如何にもお付き合いしている風にふるまう事と。
その際、新一が色々言ったりしたりしても、新一の恋人らしく鷹揚に構えていて欲しい事。

その二つが、新一と蘭の間で確認された。

公開ゼミ開始まで、間もなくとなり。
蘭は、大講義室に腰掛けていた。
新一に言われた通り、出来るだけ前方に座り、隣の座席を確保する。

やがて、講義室の後方出入口に、待っていた姿が現れ、蘭はホッとした。


新一は、足早に蘭の元まで歩いて来て、隣に腰かけた。


「わりぃ、蘭。待ったか?」

新一の表情は、本当にすまなさそうに見え、新一の演技力に、蘭は複雑な気持ちになる。
この台詞は、予定されている芝居の内だからだ。

「大丈夫よ、間に合ったから」

予定通りに、蘭は答えた。
新一のホッとしたような笑顔に、蘭はドキリとする。
まるで、本物の恋人同士の待ち合わせのようだと、胸が高鳴る。


公開ゼミ開始時刻の少し前に、青木助教授が姿を現わした。
その時、隣から新一が蘭の肩を抱き寄せた。

「蘭、逆らうなよ」

新一の囁き声が耳元で聞こえ。

「え?」

と聞き返す間もなく、蘭の口は、塞がれてしまった。
温かく柔らかく湿ったもの・・・新一の唇で。

蘭の頭は真っ白になり、事態を把握するのが少し遅れた。
思考が停止し、目を見開いたままに、新一の口付けを受け止めていた。

何かが蘭の唇をなぞり・・・それが新一の舌だと気付いて、蘭はブルリと身を震わせ、抗うように身をよじった。
いつの間にか、蘭の腰は深く抱き込まれ、頭が動かないように抱え込まれていた。
その意外なほどの力の強さに、蘭は身動き出来なかった。


「な、何だお前達は!?ここは神聖な学問の場だぞ、何をやってる!?」

青木助教授の怒号が飛び・・・ようやく、蘭の唇は解放された。

「失礼。まだ、開始までは間があると思ったもんでね。休憩時間中は、講義室で学問以外の事も許されると思ってますが?」

新一が、蘭の肩を抱いたまま、涼やかな声で言った。
蘭は、新一に肩を抱かれながら、目を見開いて、茫然としていた。

『わ、わたし・・・キス・・・初めて、だったのに・・・』


「それに。神聖な学問の場の筈のところで、立場をわきまえず、学生に手を出すような非常識な助教授は、もっと問題だと思いますが?」

新一がいきなり核心をついて、事態を見守っていたその場は、ざわめき出した。
人気の高い青木助教授だが、女性関係で色々と噂がある事を知っている者も、多かったのだ。

「・・・何が言いたいんだ、貴様」
「別に。一般論として、昨今の風潮を述べたまでです。それより、青木先生、もう、開始時刻を過ぎていますが?」


青木助教授は、忌々しそうに新一を睨みつけた後、講義を開始した。
最初からケチがついたせいか、講義はいつもに比べ、精彩を欠いていた。

その上。


「その説には、こういった穴があるのでは?」
「確か、○○が述べた論旨は、××だったというように、記憶していますが?」

細かい事にことごとく、突っ込みを入れて来る者があったのだ。
勿論、それをやっているのは、新一である。
しかもそれが全て、鋭く的確な指摘であったものだから、その場は沸いた。

最初は青木助教授の講義目当てに参加した者達も、今や、新一と青木助教授の対決を、面白がって固唾を呑んで見守っている。



「おい!さっきから五月蠅いお前、一体何だ!?学生だろう、どこの学生だ!?」
「これは失礼。僕は、東都大法学部3回生の、工藤新一です」

新一は学生証を見せながら、言った。
助教授は顔を歪めて押し黙り、その場はどよめく。

青木助教授は、東都大の出ではない。
新一の一言は、助教授のコンプレックスを思いっ切り刺激したようである。

中には、工藤新一の名前に聞き覚えがあると、首を傾げた者もあったが、さすがに、マスコミに出なくなって久しい新一の事を、すぐに思い出せる者は居なかった。

蘭は蘭で、息を呑む。
蘭と同級である新一が、学生であっても何の不思議もないのだが、そして、頭の切れる新一だから、東都大生であっても当然の事と言えたが、蘭にはホストクラブで再会した新一の印象が強く、とても意外だったのである。


ある意味、波乱に富んだ公開ゼミは、参加者皆が楽しみ、1人、青木助教授だけが散々な目に遭って、終了した。



新一は、去って行こうとする青木助教授の元に、蘭を引っ張って素早く近付き、囁いた。


「もしオメーが、この先、蘭にまたちょっかいをかけようとしたら、その時は、容赦しねえ。それに、腹いせに、蘭が学業で不利になるような事を仕出かそうなんて、考えるなよ?その時は、今日の程度じゃ済まねえからな」

青木助教授は、血の気を失った顔で忌々しそうに新一を睨みつけると、大きな足音をたて、黙ってその場を去って行った。




蘭は、ぼんやりと、グラスの中の琥珀色の液体と氷を見詰めていた。

目の前にあるのは、アイスティー。
テーブルの向かい側には、アイスコーヒーがあって、工藤新一が腰掛けている。


公開ゼミが終わった後、蘭は、頭が真っ白なまま、新一から連れ出され、今、喫茶店に居たりするのだった。


蘭の頭をぐるぐると回っているのは、先ほどの新一との口付け。
一方的に与えられた、初めてのキス。

けれど、嫌ではなかった。
むしろ、快感ですらあり。
もっと触れて欲しいと、心のどこかで思っていた。


『わたし・・・自分で思っていた以上に、この人の事が、好きなんだ・・・』

薄々は気付いていたのに、蓋をしていた自分の気持ち。
今、その気持ちが溢れだしそうになっている。


「蘭?どうした?」

目の前の男に声をかけられ、蘭は顔を上げる。

「ううん、何でも・・・」

男の端正な顔を見詰めた後、蘭はかぶりを振った。
蘭にとっては、一大事の、先ほどの口付けも。
きっと、この男にとっては、どうという事はないのだ。

探偵である彼も、女性からとても、もてていただろうと思う。
そして今は、ホストという別の顔を持ち、女性に夢を与える仕事をしている。

彼は今迄、どれだけの女性と、口付けを交わし、体を重ねて来たのだろう?
それを想像すると、蘭の胸は、締め付けられるように痛んだ。


「ところで、蘭。オレは依頼を果たしたんだから、成功報酬を受け取って良いと思うんだけどな」
「え・・・?」

いつの間にか、新一に深い眼差しで見詰められている事に気付き、蘭はドキリとする。

「今回の依頼を受けて、あいつの専門分野を研究したんだぜ?何せ、ヤツが認めるだけの相手にならなきゃならんからな」

そう言って新一がニッと笑った。
普通の人間では、にわか仕立てで、青木助教授に専門分野で対抗出来る筈もない。
やはり、この男は只者ではないと、蘭は思った。

「そ、そうね・・・でも、青木先生があれで引き下がってくれるのか、何だか不安なんだけど・・・」
「だから。アフターフォローも兼ねてるって、言ったろ?あいつの事で何かあったら、すぐに飛んで行くよ」
「分かったわ。成功報酬、受け取って貰える?」
「了解。今日から、8月31日の24時まで、蘭とオレは、恋人同士だ」

新一と、期限をつけて恋人同士になるのは、そういう約束だからだ。
新一が依頼を果たしたからだ。

蘭は、自分自身に、そう言い訳していた。


「じゃ、早速」

新一は立ち上がり、手を差し出して来た。

「行こう」
「え?ど、どこへ?」
「恋人同士って言ったら、デートに行くのが、定番だろ?」


蘭は、新一に手を取られて立ち上がった。
絡めとられるように、罠に落ちて行っている事を、どこかで自覚しながら、逃れる事の出来ない・・・いや、逃れようという意思がない、蘭であった。



(5)に続く




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