契約結婚



By ドミ



(8)最終回・本当に望んでいたこと



わたしは、しばらく、息をすることも瞬きをすることも忘れて固まっていた。

「な、何で……わ、わたしが、何かしましたか?」
「いや。蘭は、何もしていない。契約違反はこっちだから、充分な慰謝料と……」
「嫌です!」

考えるより先に、否やの言葉が口から飛び出していた。

「ら、蘭……?」
「嫌です!だ、だって……」

それ以上は言葉にならず。
泣くまいと歯を食いしばっても、嗚咽が漏れ、涙が流れ落ちた。

新一さんに愛されていなくても、いつか、子どもの両親として家庭を築く中で、家族愛が育てられるかもしれない。
その夢が、音を立てて崩れ落ちて行く。


「わーった。蘭が嫌だと言うのなら、この話は、なしにしよう」
「え……?」

新一さんは、困惑した表情の後、穏やかな顔になって言った。
一体、何を考えているか、分からない。
離婚を切り出すなんて、よほどのことなのかと思ったのだけれど、違ったのかしら?

「言っておくが、蘭に不満があるとか、蘭が何かしたとか、そういうことは全くねえからな」
「で、でも……」
「オメーは何も心配しなくていい。ただ……」
「ただ?」
「前に言ったことは、撤回する。もし、お前に誰か好きな人ができたら、その時は、オレの有責で離婚に応じる」
「えっ!?」
「でも、そういう相手ができるまでは、これまで通り、オレの傍に……」
「は、はい……」

まったくもって、全然、納得なんかできない……というか、新一さんが何をどう考えているか、サッパリわからないんだけど。
わたしとしては、取り敢えず、頷くしかなかった。


その夜も、新一さんはわたしを抱いた。
優しく丁寧に全身を愛撫するけれど、やっぱり求め方は淡泊で。

新一さんの脳裏には、あの美しい女性が浮かんでいるのかもしれない。

男の人は、好きでない女性でも抱けるというけれど。
多分、好きな女性を抱くのは、そうじゃない場合と比べて、幸せで気持ちイイだろうと思う。

もしかして、過去、あの女性を抱いたことがあるのかも、しれない……。


「蘭!?どうしたっ!?」
「え……?」

新一さんの切羽詰まった声に、わたしは目を開いて彼を見た。
そこにあるのは、新一さんの苦しそうな表情。

「なんでも……なんでもありません」
「じゃあ、何故、泣く?」

言われて気付いた。
わたしはいつの間にか、涙を流していたのだった。

「本当に、なんでもないんです……」
「蘭……」

新一さんの優しい口づけが降りてくる。

「お前が泣くと、オレは……」
「新一さん?」
「泣かないでくれ……頼むから……」

新一さんがわたしの涙を唇で拭う。

抱かれている最中に涙を流すなんて、新一さんに失礼だ。
わたしは必死で涙を堪えた。

たとえあの美しい女性の代わりだとしても、良いじゃない。
わたしは、わたしの精一杯で、新一さんのために何かしようって、決めたんだ。
わたしには勿体ない幸せをくれたこの人に、わたしは精一杯のことをしようって、決めたんだ。

新一さんが、離婚を切り出したのは、初恋の阿笠先生に会ったからだけでなく、もしかして、わたしが初心を忘れて彼への態度が変化してしまったのに気付いたことも、あったのかもしれない。


高校生活最後の空手の大会が終わり……わたしは、インターハイ優勝という成績を残して引退した。
あとは、大学受験一直線だけれど。
思うところがあって、阿笠先生の外来受診に行った。



   ☆☆☆



健康保険証を使うと、いつどこを受診したのか、新一さんにバレバレになってしまうため、わたしは、自費受診を選んだ。

「蘭さん、どうしたの?問診票には『ピル希望』と書いてあるけど、また工藤君が避妊を怠っているワケ?」
「い、いえ……そんなんじゃ、ないです」
「どういうこと?」
「あ、いえ、その……空手の試合と月のものが重なりそうなんで……」
「……高校の空手の試合は、今の時期、もう全て終わっているんじゃなくて?3年生は秋季大会は引退でしょ?」

わたしは言葉に詰まった。
あまりにもバレバレな嘘だったのだ。

「どうしたの?」
「先生。わたし、新一さんの子どもが、欲しいんです!」
「で?まさか、ピル飲んでるからって彼に嘘ついて、避妊具を使うのを辞めさせようってワケ?」

わたしは、頷くしかなかった。

「悪いけど、他を当たってちょうだい。本当に試合のためとか修学旅行のためとかならともかくね。高校生相手に、避妊のためのピルの処方なんて、しないわ、私」
「ご、ごめんなさい!」
「焦らなくても、あと半年もして高校卒業したら、彼も子作りに励むと思うけど」
「でも……っ!」
「どうしてもというなら、彼本人に頼むのが一番早いと思うわよ。多分彼、蘭さんの頼みなら何でも聞くでしょう」
「……そ、そんなことは、ないと思います」

わたしの反論に、阿笠先生は片眉をあげた。

「せ、先生は……新一さんのこと、どう思っていらっしゃるんですか?」
「はあ!?」

阿笠先生が目を見開いた。
苦虫を噛み潰したような顔になる。

「あなた、一体何を勘違いしているワケ!?」
「新一さんが……愛した女性は、阿笠先生なんじゃないかって……」

みるみる、阿笠先生の顔が真っ赤になり、怒りの表情で体を震わせていた。

「あんの男!!自分の愛妻に、何勘違いさせてんだか!もしあの男が目の前にいたら、三重往復ビンタね!」
「あ、あの……?」
「イイ!?私とあの男は、高校生の頃、一時期お隣さんだっただけで!事件がらみでちょっとお世話になったりお世話したりはあったけど、それだけで!お互い、一度も、カケラも、その気になったことなんか、ないからね!」
「あの……でも、新一さんの方は……」
「あの男は、私に限らず、誰にもそんな気になったことはないわね!恋なんか無縁と思っていたあの男が、結婚すると聞いて耳を疑ったくらいよ」
「でも、あの……ずっと密かに思っていた阿笠先生が結婚なさったから、諦めるために、たまたま目の前にいたわたしと結婚したのではないかと……」
「は!?誰が、いつ、結婚!?」
「阿笠先生……」
「もしかして。この前の、旧姓宮野、今の姓阿笠ってところで、そう思ったワケ?」
「え?は、はい……」

阿笠先生は、大きな溜息をついた。

「それは……確かに、勘違いさせる話をして悪かったわね。私は正真正銘の独身で、阿笠は、私の面倒を見てくれて養父になった人の苗字なの」
「あ……え……?」

まさか、姓が変わったのがそういう事情だったとは。
わたしは、目を白黒させた。

「で、でも、そちらの結婚式って……」
「ああ。最近結婚したのは、義父の阿笠博士よ。40年ぶりに再会した初恋の女性と、一緒になったの」

色々と勘違いだったことが分かって、何だか恥ずかしかった。

「彼が結婚式の招待状を送ってきて、久しぶりに連絡を取った時、もう惚気話ばかりで、胸やけがしそうな思いをしたのよ。なのに、肝心の蘭さんに、こんな勘違いをさせて……不甲斐ないったら……」

阿笠先生は大きな溜息をついた。

「今日の診察は、生理不順の相談、ということにしとくわね。それじゃあ」

診療所を出たわたしは、暫く考え込んでいた。

新一さんが?
阿笠先生相手に?
惚気話?

そんな、まさか……。

でも、阿笠先生が新一さんの初恋の相手なのではという疑念は、どうやら全くの勘違いだったみたい。


でも、じゃあなぜ、新一さんは突然淡泊に?
そして、なぜ、離婚話を?


考え事をしていると、わたしの脇で車が止まり。
ハッと気づいた時には、首の後ろに衝撃を受けて、わたしは意識を失っていた。




   ☆☆☆




目が覚めると、薄暗い倉庫のようなところで。
わたしは口にガムテープのようなものが貼られ、後ろ手に縛られていた。
足も両足揃えて縛られている状態だった。


「気が付いたかね?」

久し振りに聞く、二度と聞きたくなかったおぞましい声。
関内さんが、そこにいた。


「私を破滅に追い込んだ憎い工藤……ヤツに復讐するには、今はヤツの若奥様におさまっている君を滅茶苦茶にするのが一番と思ってな」

破滅に追い込んだ?
新一さんが、関内さんを?

「ヤツの所為で、うちの会社の不正が暴かれて、会社は潰れた。妻からは三行半を叩きつけられたよ。散々、贅沢な思いをさせてやったというのに!」

段々、分かって来た。
新一さんは、わたしの事をきっかけに、関内さんの行状を調べ、不正を暴き、関内さんを失脚させたんだ。

正直、同情できない。
私利私欲で会社を運営し、家族にたとえ贅沢させていたとしても、若い女性を囲って欲望のままに行動していた、この人には!

「さあて。蘭君の処女を奪えなかったのは残念だが、男を知っている体だ、すぐに快楽に喘ぐようになるだろう。それを撮影して、ヤツに送りつけてやる。いや、ネットにばらまく方がいいか?」

心底、ぞっとした。
こんな男に、触れられたくなんか、ない。

何とか、何とかしなければ!

「助けは来ないよ。目撃者がいる可能性を考えて、車は乗りかえているし……君の携帯電話は、途中で捨てたしね」

関内が手を伸ばしてくるのを、身をよじって避ける。
関内は荒い息をして、ズボンのベルトを外し、一物を取り出していた。
口にガムテープが貼られていなかったら、悲鳴を上げていたところだ。
グロテスクなあんなもの……新一さん以外の物なんて、目に入れたくもない!

「その可愛いお口で、私の息子を舐めて欲しいところだが……噛みつかれたら困るからね。君が見かけによらぬじゃじゃ馬だということは知っている。まずは下のお口にぶち込んでくれよう」

関内の手がスカートのところに伸びてくるのを、体をよじって避けていると、足のところにチカッと痛みが走った。
どうやらガラス片か何かのようだ。

わたしは、必死で身をよじりながら、何とかガラス片で足の縄を切るのに成功した。

そして、寝たままの体制から思いっ切り関内の股間を蹴りつける。
勢いはつかなかったけれど、蹴った場所が急所だったため、関内が蹲った。

手が後ろ手に縛られたままなので、苦労しながら体を起こし、そして走り出した。
出入り口が閉まっているのを渾身の蹴りで何とか開け、外に飛び出す。

そして。

その建物は崖のすぐ傍に立っていたらしく、足元が崩れて落ちて行きそうになった。
その一瞬、愛する人の面影が浮かぶ。

けれど、次の瞬間、体の落下が止まったのを感じた。
切羽詰まった声が聞こえる。

「蘭!大丈夫だから!今、引き上げてやっからな!待ってろ!」

そして、引き上げられ……そこにいた新一さんは、安堵の表情で、力いっぱいわたしを抱き締めた。



   ☆☆☆



わたしは一応、病院に連れて行かれたけれど、ちょっとした擦り傷位だったので、すぐに家に帰された。
家には、お父さんお母さん、そして何故かイーサン本堂さん(瑛佑君のお父さん)までいたけれど、すぐに帰った。
お父さんはちょっとブツブツ言っていたけれど、お母さんが「邪魔しないのよ」と引っ張って行った。

イーサン本堂さんは、瑛佑君とわたしの婚約解消はしたけれど、見捨てた訳ではなく、関内さんの会社のことを調べていたそうだ。
そして、新一さん・本堂さん・お父さん、力を合わせて、その不正を暴き、関内さんを失脚に追い込んだ。


新一さんは、阿笠先生からお叱りの電話を受け、わたしが学校に行かずに病院に行ったことを知った。
けれど、いつまでも帰ってこないため心配し、まず携帯電話で連絡を取ろうとしたが連絡がつかず、GPSで探したらとんでもないところに携帯電話が捨てられていた。
そこで、わたしの首にかかっているプレートの追跡機能で(結婚指輪を首から下げている鎖についていたプレートに、そんな機能が着いていたのは、初めて知った)わたしを探したのだそうだ。

「間に合って、良かった……」
「新一さん。ごめんなさい。迷惑かけて……」
「いや、オレの所為でオメーがこんな目に遭ったんだろ?」
「でも。元はと言えば、わたしのことで、関内さんを調べたんですよね?」
「いやまあ、そうだけど。それを恨みに思ったヤツがどんな行動を取るか、予想はついた筈なのに、甘かった……。オレの所為だ……」
「新一さん……」

新一さんの優しい口づけが降りてくる。

「宮野……いや、阿笠からも随分怒られた……」
「新一さん……?」
「オメー、オレの初恋の相手が、アイツだと思ってたんだって?」
「え……はあ……まあ……」

新一さんが大きな溜息をついた。

「あのな。その……引かずに聞いて欲しいんだけどよ……」
「新一さん……?」

新一さんは、わたしから一旦目を逸らした後、わたしを真っ直ぐに見て、言った。

「オレの初恋は、蘭、オメーだよ」
「え!?えええええッ!?」
「引くなっつっただろ?」
「ひ、引いたわけじゃありません。驚いただけです!」
「……だよなあ。イイ歳したおっさんが、女子高生に初恋だなんて、驚くよなあ」

新一さんはわたしをしっかり抱きしめたまま、目を明後日の方に向けて、そう言った。
その頬が、赤くなっている。

わたしは、驚いたけど……というより、信じられなかったんだけど……じわりと、嬉しさが湧き上がって来ていた。

「奇遇ですね。わたしも、新一さんが初恋です」
「は!?」

今度は、新一さんが目を丸くしていた。
そ、そんなに驚くほどのことなんだろうか?

「だから……嬉しかったんです、わたし。新一さんと結婚できて、キスも、その……エッチも、新一さんとで……」

恥ずかしくなって、最後は声が小さくなり、わたしは新一さんの胸に顔を埋めた。

新一さんは、わたしの顔をあげさせると、そっと唇に触れてきた。
1回離れて、今度は深く口付けられる。

「蘭。愛しているよ」
「新一さん。わたしも……」

幸せで、涙が溢れてくる。

「でも、じゃあなんで、離婚を切り出したりしたんですか?」
「いや……オレも、金で蘭を買ったって負い目があったし……」
「で、でも、それは……」
「オレは、蘭に笑顔でいて欲しかったのに……蘭は、結婚してすぐの頃は、いつも笑顔だったのに……いつからか、辛そうな顔ばかりになっちまってよ……」
「新一さん?」
「オレが一番望んでいたのは、蘭が幸せそうに笑っていることだったんだ……だから……オレから解放した方が良いのかと……」
「バカ!辛かったのは……新一さんの気持ちが、分からなかったから……」
「蘭……?」
「愛されてないんだって、思い込んでたから……」
「……悪かった……」

わたしは首を横に振る。
新一さんが悪かったんじゃない。
ただ、お互い、ちょっとすれ違っていただけ。

それは、これからいくらでも、取り戻せる。


その夜、わたしたちは、今までで一番お互い満たされた夜を過ごしたのだった。




契約結婚・完


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脱稿 2018年9月17日




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