契約結婚
By ドミ
(2)出会い
「蘭。この人が、お前の許婚者(いいなずけ)だ」
高校生になったわたしが、お父さんに紹介された相手は、丸い大きな眼鏡をかけた、一見女性に見まごうような可愛い感じの、わたしと同い年である本堂瑛佑君だった。
恋を知らなかったその頃のわたしは、婚約者として紹介された彼に対して、女友達と同じような親しみを感じた。
お父さんは、若い頃に始めた探偵事務所を会社組織にしていて、その関係もあり、わたしはいつか、父の決めた相手と結婚するだろうと思っていたので、その相手が目の前の瑛佑君と知って、特別嬉しい訳ではなかったけれど、少しホッとしていた。
お父さんを通して結婚の申し込みをして来ていた中には、かなり年配である上に、何だか厭らしい感じの笑いを浮かべている男性もいたので。
瑛佑君のお父さんは、わたしのお父さんと共同で仕事することもある探偵事務所経営者で、その時点では、まずまず無難な縁談だったと思う。
「蘭と変わらねえ歳の子どもがいるヤツとか、愛人を何人も抱えているようなヤツの所に、大事な蘭をやる訳には行かねえからな」
お父さんは、会社経営の事だけじゃなく、わたしの幸せをちゃんと考えてくれている。
わたしは、嬉しかった。
でも、お母さんは、ちょっとだけ、違った考えを持っているようだった。
「結婚は確かに、恋だけではできないけれど。蘭に好きな人ができたら、政略結婚が疎ましくなる事もあるかもしれない。だから、蘭の初恋もまだの今、まだ婚約とか、やめて置いた方が良いと思うのよね」
お父さんとお母さんは、恋愛結婚だった。
2人は幼馴染で、高校生の頃に付き合い始めた。
お母さんは、お爺ちゃん(お母さんのお父さん)から縁談を押し付けられた時、すごく反発したのだとか。
お父さんとお母さんの結婚は、容易いものではなかった。
お父さんとお母さんは、20歳になって、親の同意が不要になって、駆け落ち同然に結婚した。
その後、お父さんが会社を興し、何とか軌道に乗せる事ができて、ようやく、お爺ちゃんが許してくれたんだそうだ。
「その頃ちょうど、蘭が生まれた事も、お父さんの心を融かした一因だったけどね」
わたしは、お父さんとお母さんが結婚して数年経って、ようやく生まれた、待望の子どもだった。
お父さんはわたしの事を、政略結婚の道具と考えていた訳ではなかったと思うけれど、わたしには苦労して欲しくない、幸せになって欲しい、その想いから、わたしの婚約者を決めたのだと、思う。
わたしが、初めての恋を知ったのは、それから間もなくの事だった。
☆☆☆
瑛佑君もわたしも、まだ高校生だけど、親が会社の社長だったので、パーティに、連れて行かれる事になった。
わたしの親友で、鈴木財閥の令嬢である園子は、既に何度もパーティに参加していた。
鈴木財閥は日本でも1・2を争う大きな会社で、お父さんの探偵事務所のような個人の事業から出発した会社とは、格が違うのだ。
「瑛佑君が、蘭をエスコートしてる姿を見たらさ……カップルというより、女友達2人連れって感じだよねえ」
園子に言われて、瑛佑君はいじけていたけれど。
お母さんに見立ててもらったドレスで正装して、瑛佑君にエスコートされて、わたしは初めて、正式な夜のパーティに参加したのだった。
慣れないロングドレスに慣れないハイヒール。
会場に入る階段で、足を踏み外し、転げ落ちそうになったわたしを、ガッシリと支えてくれた腕があった。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って顔をあげた。
20代前半位の男性が、そこにいた。
端正な顔立ちとスラリとした立ち姿、そしてわたしを見つめる、蒼味を帯びた鋭い眼差しに、思わずドキリとする。
「ここの階段、転げ落ちたら、軽傷じゃ済まないかもしれないから、気を付けて」
「は……はい」
その男性は、見たところ、細身でスラリとしているようだけど、わたしを支えてくれた腕は意外と力強くガッシリしていた。
去って行く後姿を、ぼうっと見ていると、横から声がかかった。
「今の人は、工藤新一……工藤コーポレーションの代表ですね」
「工藤……シンイチ……?」
わたしは、瑛佑君から聞いた名前を、甘美な思いで繰り返していた。
工藤コーポレーションは、お父さんと同じく、彼個人の探偵事務所から始まり、あっという間に大きな会社に成長したということを知ったのは、少し後のこと。
今はただ、わたしの心に残り香のような面影を残した彼のことで、頭がいっぱいだった。
「彼は、蘭さんの手に負えるような人間じゃ、ありません」
「え……?」
「何人もの女性に言い寄られて、ことごとく袖にしてきた、冷たい男性だそうですよ。惚れると辛い目に遭うだけです」
「……」
瑛佑君に言われて。
わたしは逆に、たった今、会ったばかりの男性に、どんな人かも知らないままに、心惹かれている事に気付いてしまった。
「でも。振るのが冷たいって、言えるのかしら?」
「蘭さん?」
「だって、彼、もてるんでしょ?言い寄って来る女性皆に愛想よくするのが、本当の優しさかしら?」
彼はたった今、転ぼうとした見知らぬわたしを支えてくれた位、紳士的な男性だ。
その彼が、言い寄って来た女性相手に、ヘタに優しく対応してくれたとしたら?
勘違いして舞い上がって、その挙句、かえって傷付く事にならないかしら。
言い寄って来た相手を冷たく振るのは、心が冷たいとは言い切れないのではないかって、わたしは思っていた。
「蘭さん……!」
「大丈夫。わたしは、身の程を知っているから……彼に言い寄るようなマネはしないわ……」
わたしが言うと、瑛佑君はグッと詰まったみたいだった。
瑛佑君の事、嫌いじゃないけど……ううん、友達としての好意は十分に持っているけど。
わたしはこの時、瑛佑君の婚約者である自分の立場が、疎ましく思えてしまうようになったのだった。
『わたしは、まだ高校生。大丈夫、彼へ心惹かれたのは、一時の気の迷い。すぐに、忘れるわ。忘れられるわ……』
わたしは、扉の向こうに消えてしまった男性の後姿を思い浮かべながら、自分にそう言い聞かせていた。
多分、彼との出会いが、それ一度きりであったのなら、あるいは、その先も、普通にパーティで会うだけだったのなら、芽生えたばかりのわたしの淡い想いは、何とか抑え込む事ができたのかもしれない。
けれど、運命はそれを許してはくれなかったのだった。
☆☆☆
それから、数日後の事。
わたしは横断歩道の手前で、信号が変わるのを待っていた。
車が普通に通り過ぎている。
車道にボールが転がって来て、ハッとした。
向かい側から、子どもがボールを追って道路に飛び出そうとしている!
わたしはその子どもを助けようと動きかけたが、それより早く自動車が迫って来て、絶望的になった。
けれど、わたしの横をすり抜けて駆け抜けて行った姿があり、迫る自動車より早く、子どもを抱え上げて向かい側に転がった。
それは、スーツ姿のあの人だった。
子どもは無事だけど、その人が倒れているのを目にして、わたしは心臓が止まるかと思った。
「工藤さん!」
「えっ……?」
「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ。大丈夫。勢い余って転んじまっただけだから」
そう言って彼は、立ち上がった。
スーツの汚れをパンパンとはたく。
「おじちゃん、ありがとう」
「坊主、気を付けるんだぞ」
「うん!」
子どもの頭をポンポンと叩き、ニカッと笑って見せた彼の表情は、少年ぽくて、パーティの場で見た凄味のある蒼い目とは、ずいぶん印象が違っていた。
わたしは、彼の掌に、すり傷があるのに気付いた。
「サッカーで鍛えた足は、まだ捨てたもんじゃねえな」
「工藤さん!手、すりむいてる!」
「ああ。こんなん、舐めときゃ治る……」
「ダメですよ!ばい菌入ったりしたら……!ちゃんと消毒して手当てしなきゃ!」
わたしは、すぐ近くの公園にある水飲み場まで彼を引っ張って行き、擦り傷の所に水道の水をかけて洗い、ハンカチで拭いて、絆創膏を出して貼った。
「……あのよ……ありがとな……」
彼の声で、我に返った。
何か、ものすごく、余計な事をしてしまった気がして、とても恥ずかしい。
「い、いえ、あの……余計なことして、すみません!」
「ああ、いや。ありがとう、蘭ちゃん」
「え……?」
わたしは思わず、彼の顔を見た。
「ど、どうして、わたしの名を……?」
「パーティの時、来てただろ?一応、出席者は全員、覚える事にしてる。記憶力には自信があるんだ。にしても、まだ若いとは思ってたけど……高校生とはね」
「……」
やっぱり、やり手なんだなあ。
わたしとは全く違う世界の、大人の男の人。
「今日のお礼、何が良い?」
「そんな。お礼だなんて……だって、あなたはあの子を助けてくれたんだし……」
「へ?あの子ども、君の身内?」
「い、いえ、知らない子ですけど?」
「だったら、何で?」
「だって……わたしは全然間に合わなかったのに、あなたが素早くあの子のところに行ってくれたから……」
工藤さんは目を丸くして、わたしを見ていた。
そして、破顔する。
「オメー、変わってるよなあ」
「な、そんな風に言わなくても……!」
「いや、けなしてるんじゃねえよ。すげえ、素敵だ」
「えっ……?」
わたしは、頬に血が上って、固まった。
やっぱりこの人、天性の女たらしなのかもしれないと思う。
「人を助けるのに、理屈や理由は、要らねえよな」
彼の、この言葉こそ。
運命だった。
わたしの心を鷲掴みにし、ほのかな想いを、身を焦がす恋情に変えてしまった、魔法の言葉。
もう、逃れる事はできなかった。
「オレはもう、行かなきゃ」
「あ……そ、そうですね……」
彼は、社会人。
しかも、やり手の、会社の経営者。
きっと、とても忙しいんだろう。
「じゃあ、またな」
「は、はい……」
そのまま、別れた。
後日、彼から、真新しいしゃれたハンカチが送られてきて、わたしは泣いた。
それっきりかと思っていたのに。
それから、運命のいたずらは何度も訪れた。
時に、わたしがお婆さんを助け起こした場に、彼が行き合わせたり。
彼がお爺さんを庇ったところに、わたしが行き合わせたり。
社長の立場の彼が、どうして道を歩いているかと思えば、外回りの仕事で車を使う事もあるけど、東京は道が混むから公共の交通機関を使う事もあるとかで。
それにしても、偶然行き会う事が本当に多くて、不思議。
わたしの恋心はますます募り、そして、少しだけ……彼と親しくなったと思う。
彼とわたしはいつの間にか、「新一さん」「蘭ちゃん」と呼び合う仲に、なっていた。
☆☆☆
「蘭さん!大丈夫ですか!?」
「瑛佑君?一体、どうしたの?」
「父がどうであれ、僕は……!」
ある日の事。
お父さんの事務所に、瑛佑君が血相を変えて飛んできた。
わたしは意味が分からず、目をパチクリさせる。
「本堂家の御曹司さんよ。婚約を解消してきたのは、あんたの父上の方だ。もう、ここに用はねえだろう!」
お父さんが、瑛佑君を睨むようにして言った。
「婚約も、婚約解消も、父が勝手に決めた事です!でも、父は関係ない!僕は、僕は……蘭さんの事……助けたいんだ、何としても!」
「ふん。高校生のガキに何とかできる事じゃねえんだよ。沈みかけた船を、あんたの父親は見捨てた。それは、経営者として正しい判断だ。恨む気はねえ」
「お父さん!どういう事!?沈みかけた船って……」
「ああ。毛利探偵事務所は、多額の負債を抱えて、倒産寸前なんだよ」
わたしは、息を呑んだ。
お父さんは、自分で始めた探偵事務所を会社組織にして、探偵さん達や事務員さん達を沢山雇って、事業拡大して、結構景気が良いものだと思っていた。
そんな状況になっているとは、今迄、全く気付かなかった。
「心配すんな。英理には、弁護士としての収入があるし、オメーは全く生活の心配は要らねえ」
「お父さん……そんな……!」
「お前たちが経済的に苦労しねえよう、英理とは離婚する」
「だって!お父さんは……お父さんは、どうするの!?」
「俺一人なら、何とでもなる。従業員たちはそれぞれ優秀だし、新しい勤務先は、すぐに見つかるだろうよ」
わたしが小さい頃、お母さんは家を出て行って、長い事別居していたけれど。
お父さんとお母さんは、お互いを今でも深く想い合っている事、わたしは知っている。
別居はしても、お父さんもお母さんも、離婚を考える事は、1度もなかった。
でも、今、お父さんは、離婚しようとしている。
お母さんとわたしとを守る為に。
じゃあ、毛利探偵事務所は、働く人たちは、そしてお父さんは、どうなるの?
何とか、良い方法はないのだろうか?
そしてわたしは、このまま、のうのうと、学校に通ってて良いんだろうか?
「蘭の学校や生活費くれえ、英理が何とでもしてくれるだろうから、心配すんな」
お父さんは、わたしの考えている事位お見通しとばかりに、言った。
たぶん、わたしが学校を止めて働いた位では、どうにもならない。
お母さんは結構収入があってそれなりにお金を持っているだろうけど、それでも追いつかない位に、借金の額は大きいんだ……。
個人の借金じゃなく、会社の借金だから……。
わたしが、悶々としながら、下校していると。
突然、声が掛かった。
「毛利蘭ちゃん?」
呼ばれて顔をあげると、そこにいたのは、関内(せきうち)さん、何度か顔を合わせた事がある、お父さんと仕事で関わりのある会社の社長さんだった。
☆☆☆
わたしに話があると、彼に連れて来られたのは、たぶん、高級料亭と言われるお店で。
わたしには一生縁がないだろうと思っていたところだった。
目の前に並べられるお膳は、とても素晴らしいものなのだろうけど、味わうどころではない。
お酒を勧められそうになったけど、それは固辞した。
未成年だからってだけじゃなくて、何だか怖い。
「お話って、何ですか?」
「……やれやれ。若い子は、せっかちだねえ」
「わたしには、こんなところで、お食事を頂く義理はありません。お話がないなら、帰ります」
「君は、お父さんの会社を救いたくはないかね?」
……!お父さんの会社の、借金の話なんだ。
でも、わたしがどうやって、それを返せるというのだろう?
「彼の会社が突然苦しい事になったのは、ワシが借金の一括返済を迫ったからなのだよ」
「え……?」
「元々、お父さんの会社にお金を貸してたのは、別の会社で、お父さんからそこへは、利子も含め、分割できちんと支払われていた。けれど、その債権を、ワシが買い取ったのさ」
「それは、つまり……お金の貸主が変わったという事ですか?」
「そうそう。君、高校生の女の子にしては、良く分かってるじゃない。結構優秀な事務員になれるかもね」
「で、でも、お父さん……父が、きちんと返済しているなら、それで良いんじゃないですか?」
「ふふふふ。君のお父さんは、今迄通り、分割で支払おうとしたよ。だが、ワシは、ある条件を出した。そして、彼はそれにうんと言わなかった」
「……じょ、条件って……」
わたしは、背筋にザワリとしたものが走るのを感じながら、問いかけた。
関内さんは、にたりと笑って、言った。
「月1〜2回程度で良いから、君と夜を一緒に過ごしたいと言ったんだよ」
わたしは大きく息をして、全身総毛立ち、思わず我が身をかき抱いていた。
関内さんは、50前後位の男性で、奥さんも、わたしより年上のお子さんも、いらっしゃったはず。
気持ち悪いとしか、思えなかった。
お父さんより、ずっと年上の男性。
ううん、年の差が問題なんじゃない。
もし、これが、彼なら……たとえ50歳になっていても、きっとわたしは、嫌じゃない。
でも、でも、目の前のこの男性は……。
「こういう料亭では、休憩の為の部屋もあってね。君さえうんと言えば、すぐにでも……」
「やめて下さい!」
わたしは、思わず叫んでいた。
「そっかそっか。まあ、今月いっぱい、ゆっくり考えて良いよ。君次第で、お父さんの会社は救われるんだ。従業員も、路頭に迷わずに済むんだよ」
妙に優しい調子で言う関内さんの言葉が、疎ましくて気持ち悪くて仕方がなかった。
わたしは、逃げるようにして、店を出た。
そのまま歩いていて。
気がついたらわたしは、新一さんの会社のビルの前にいた。
ここは、他のテナントも入っているけど、工藤コーポレーションの自社ビルだ。
わたし、いつの間にか、こんなところに……。
時刻も遅いけど、受付には人がいた。
工藤コーポレーションは、お父さんと同じく、元々、新一さんの探偵事務所から始まった会社で、夜間も交代で受付されていると聞いた事がある。
けれどわたしは、仕事の依頼をしに来たわけじゃない。
受付近くでウロウロしていると、胡散臭げに見られてしまった。
帰ろうと思って踵を返しかけると、声がかかった。
「蘭ちゃん?どうしたんだ、一体?」
心の底から安心できる彼の声に、わたしの目からぶわっと涙が溢れだした。
(3)に続く
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
初稿 2012年10月30日
改稿 2018年9月17日
戻る時はブラウザの「戻る」で。