初体験クライシス
By ドミ
(3)
「じゃ、行ってきまーす!」
蘭は、挨拶をして毛利邸の玄関を出た。
自分の朝ご飯を作るついでに、父親の小五郎の朝ご飯を準備し、家を出る。
部活は引退し、朝練がないので、そう早い時間でもない。とはいえ、父親の出勤は、階段を下りるだけなので、まだようやく目が覚めたばかりだった。
去年は、小さな探偵が、一緒に食卓を囲んでいた。実は江戸川コナンと名乗ったその少年が、新一だったことを、今の蘭は知っている。
今は、蘭一人でご飯を食べることが多い。父親の小五郎とは時間が合わないからだ。
コナンに帰って来て欲しいわけではない。ただ、あの時の温かかった食卓が、すごく懐かしくなることがある。
そういうことを考えながら玄関を出た蘭は、階段の一番下に、ここ最近気まずくなっている恋人の姿を認め、心臓が音を立てたのを自覚した。新一は物音に気付いたのか、顔を上げ階上を見上げる。
お互いの姿は毎日見ているはずなのだが、こうやってお互いを意識して視界に入れるのは久しぶりのことで、蘭は何だか泣きたくなった。
新一は何となく仏頂面だけど、蘭に向けるその眼差しは優しい……ような気がする。蘭が下まで降りると、新一が声を掛けてきた。
「はよ」
「……おはよう。どうしたの?迎えに来るなんて、珍しいね」
「ああ。まあいっつも迎えに来てもらって……オレもオメーに甘え過ぎてたって思ってよ」
何のわだかまりもないかのように、自然に言葉が出たことに、蘭はホッとする。新一は、ポケットから手を出すと、その手をそのまま蘭の方に差し出した。蘭はおずおずとその手を取る。
新一は、きゅっと蘭の手を握りしめた。つないだその手から、しびれるような感覚が蘭を襲い、涙が溢れそうになって蘭は思わず顔にキュッと力を入れた。
「蘭」
「……なに?」
「今日、昼飯、一緒に食おうぜ」
「え?……うん。じゃあ、学食で?」
「いや……色々と、二人だけで話してえことがあっから……場所は探すよ」
新一が話したいことって、いったい何だろう?学食を避けるということは、聞かれたらまずい話なのだろうか?しっかり繋がれた手の感触からは、別れ話とかではないだろうと思うのだけれど……。
「それにしても、さみいな」
「12月なんだから寒いの当たり前でしょ?」
「ちゃんとあったかくして、風邪ひかねえようにしろよ?オメーは頑張り過ぎて体調崩すことあっからよ」
「えー?意外としょっちゅう風邪ひいてる新一には、言われたくなーい!」
「オメーな」
「それに、新一の場合、頑張り過ぎじゃなくて不摂生が原因でしょ?」
そこまでやり取りしたところで、お互いに顔を見合わせて噴き出す。
軽口の応酬で、蘭の気持ちもだいぶ軽くなった。胸の奥底にしこりは残っているけれど。
それに……。
『新一の手、あったかい』
物理的に温かいというよりも。繋がれた手を通して、新一の優しさと愛情が伝わってくるような、そんな気がするのだ。
☆☆☆
「おーおーおー」
「仲良く夫婦手を繋いで登場かあ?」
新一が教室の扉を開けると、いくつもの冷やかしの声が飛んだ。
実際には、下駄箱で手を離したので、今、二人の手が繋がっているわけではなかったのだが。登校中、多くの帝丹高校生に見られていたのは間違いない。
「良いじゃねえか、彼女と手くらい繋いでも」
新一の言葉に、クラスメートは鼻白む。
昨年の修学旅行を境に新一は、色々言われてもムキになって否定しなくなったため、クラスメートたちも、からかい甲斐が無くなってしまった。なので最近はあまり、からかわれることもなくなったのだが、今日、久しぶりに、冷やかしの言葉を出したのは、ここ数日の二人の空気がおかしかったためであろう。クラスメートたちなりに心配してくれていたのだ。
「夫婦喧嘩は終了か?」
「……別に喧嘩してたわけじゃねえよ」
「否定するのは、喧嘩の方かよー」
蘭は頬を染めてうつむきながら、席に着く。
新一は、「夫婦」という言葉を否定はしなかった。けれど、肯定もしなかった。
『確かに、夫婦じゃないし……』
新一が肯定しなかったのは当たり前なのに、何が引っ掛かるのか。
蘭の脳裏に、数日前の新一との情事が浮かぶ。未婚の男女がセックスすることを「婚前交渉」なんて呼んでいたのは、半世紀も昔のことで、今や死語。まだ高校生の蘭は、そんな昔の死語を知っていたわけではない。
今や恋人同士でも当たり前の行為。何故、「夫婦」という言葉で新一との一度だけの行為を連想してしまったのか、蘭にもよく分からなかった。
ただ。
今朝、新一が迎えに来て、手を繋いで登校して。何となく、ギクシャクしたものは無くなったような感じではあるけれど、元に戻ったわけではない。もう、昔には戻れない。確かに二人は一線を超えたのだ。
「蘭、なんだ、今朝はラブラブじゃない」
「そ、園子……」
「心配してたけど、大丈夫そうね」
大丈夫なのかどうか、蘭には分からなかった。
けれど、友にこれ以上心配かけたくなくて、蘭は笑顔を作った。
☆☆☆
その日、数学の小テストがあった。学期末テストのように成績に影響するわけではない。なので、結果が悪くても大きな問題は無いと言えば無いのだが、共通テストを1か月後に控えている今、この小テストで良い点数が取れないようだと困る。
蘭はずっと真面目に勉強してきていた。しかし、ここ数日……サボっていたわけではないのだが気もそぞろだったため、やはり頭に入っていなかったようだ。
今日のテストは、まさしく数日前、新一に抱かれる直前に、ちょうどやっていたところで。その後、蘭一人で勉強しても、理解が追いついていない部分だった。
『数学は、その単元のポイントになる部分があって……公式の丸暗記じゃなくて、何がどうなってこうなるって理屈を理解してた方が、応用がきくんだよ』
焦っても焦っても、肝心の数式のことではなく、その時の新一の言葉ばかりが頭に浮かぶ。
蘭の点数は、そこまで悲惨なものではなかったが、蘭の目標から考えたら今一つだった。
蘭が目指すのは文系の学部で、国語・英語は結構良い成績が取れているので大丈夫だが、数学も少しは良い点数が取れないと難しい。
「毛利。最後の追い込み、死ぬ気で頑張れ」
教師からテスト用紙を返されながら、蘭はずんと落ち込んでいた。
新一が心配そうに蘭を見ていたことに、蘭は気付かなかった。
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