あなたしか見えない



byドミ



(9)それぞれの旅立ち



「蘭、あんたまさか・・・それ、つわりじゃ?」

園子の震える声に、蘭は振り返る。

「うん・・・まだきちんと確認してないけど、多分・・・」

蘭の月のものは、予定より遅れていた。
そして、体調の変化。

蘭のそれは、軽いものではあったけれど、蘭の体には色々な意味で、明らかな変化が見られていた。

「蘭?相手は知ってるの?結婚の予定は?」
園子が矢継ぎ早に訊いて来る。

「ちょっと・・・待って、園子」

蘭の言葉に園子ははっとしたように謝って来た。

「あ、ご、ごめん。体調の悪い蘭にこんな事・・・」
「あ、ううん。体調は悪くない。つわりも、時々軽くある程度だしね」

吐き気が落ち着いた蘭は、園子と共にリビングに戻った。


「この子の父親になる人は、まだ何も知らないの。私はピル飲んでるって嘘ついて、その人の子を宿したから」

蘭の言葉に、園子は息を呑んだ。
蘭はちょっと寂しそうな笑みを浮かべて言った。

「結婚するつもりも、ないわ」
「ええ?蘭は本気だけど、その彼は・・・遊びだって・・・事?」

園子の言葉に、蘭はかぶりを振った。

「ううん。彼は彼で、私の事真剣に思ってくれてる。でも・・・まだ彼は、これからだもの。私とのスキャンダルはきっと彼にとって命取りになるから・・・」
「って事は、相手はまだ若い・・・って、ちょっと待って。もしや・・・相手は学生?」

蘭が躊躇いつつこくりと頷く。

「・・・じゃあ、もしかして・・・新一君・・・?」
「え!?」

蘭は驚いて顔を上げる。

「な、何でっ・・・分かったの!?」

蘭の声は上ずっていた。
誰にも隠し通してきた蘭の気持ちに、まさか気付く人がいるとは思っていなかったのだ。
園子は、静かに蘭を見詰めて言った。

「私がどれだけ蘭と一緒に居たと思ってるの?・・・でも私も、心の奥でもしかしたらと、ずっと思いながら、それを否定して来たんだけどね。今、蘭の相手が将来あるまだ若い人だって聞いて、新一君に間違いないって思った」
「園子・・・」
「蘭。私は、そんなに拘る必要ないんじゃないかと思うの。年の差は、今はまだ大きいけど、段々縮まって行くし。新一君も蘭の事を、想ってくれているのなら、何も焦る事も拘る事もないでしょ?もっと自分の気持ちに正直に、ぶつかって行ったら?」
「そうね。そんな風に思えたら、どんなに良いかしら?」
「蘭・・・?」
「私は・・・いずれ、新一から離れようと思ってた。でも、どうしても、傍にいたくって。踏ん切りがつかなくて・・・だから・・・とっても我儘だって分かっているけど、新一の子供が欲しかったの。そして、この子を授かった。お腹が目立つようになる前に、新一の元からは去る積りなの」
「蘭・・・!?何で!?」
「だって・・・新一には・・・高校生探偵として今も活躍している新一には、輝かしい未来があるのよ!それを・・・私なんかの為に邪魔したくない、新一にだけは、迷惑をかけたくないの!」
「蘭!それは違う!迷惑かどうかなんて、それを決めるのは新一君の方でしょ!?そりゃ・・・蘭も辛いだろうけど、新一君だって辛いと思うよ、そんな事!新一君に、言えば良いじゃない!何もかも、話せば良いじゃない!2人で・・・2人で話し合いなよ、そんな風に『迷惑になる』なんて勝手に決め付けないでさ!」

そう言って蘭に迫る園子の目には、涙が浮かんでいた。

「園子。ありがと。私、本当に幸せ者で、そして我儘者だよね。みんな、私の事真剣に思ってくれてる。すごく、嬉しい。
園子。私、この子と一緒に、待つ事にしたの。新一が大学を卒業して、それでも私の事想ってくれてたら、待ってくれてたら、その時は私、何の遠慮もせずに彼の元に行く。
でも、それまでに私の事忘れて新しい相手を選んでいたら、遠くから彼の幸せを祈り続けるわ。
どちらにしろ、神様と新一から授かったこの子は、母親として私が全力で守って行く。そう、決めたの」
「蘭・・・」

園子は泣きながら蘭を抱き締めた。

「蘭。私、傍に居たのに、ずっとずっと・・・蘭は1人で苦しんでたのに、気付かなかったよ・・・。ううん、気付こうとしてなかったのかも知れない。こんなんじゃ、親友失格だね」
「園子が謝る事じゃないよ・・・私だって・・・園子に何も言わなかったんだもん・・・私こそ、親友失格って言われても仕方ないって思う」
「でも、蘭が言えなかったの、分かるもん」

親友2人は抱き合って涙を流した。

「でもね、蘭。ひとつだけ、親友として、協力させてくれない?どうせ、今度の3月で、帝丹高校は退職する予定なんでしょ?」


   ☆☆☆


3月。
帝丹高校では卒業式の後、1,2学年の終業式が行われた。
蘭は、感慨深い思いで、かつての母校であり、教師としてはたった1年を過ごした校舎を見回した。
そして、制服姿の新一を、見詰める。
多分もう、新一の帝丹高校制服姿を見るのは、これで最後だろうと思う。

「せめて、一緒に高校に通える位の年の差だったら、どんなに良かっただろう・・・」

新一の制服姿に、かつての自分の制服姿を重ねてみる。
制服姿の2人が、屈託なく笑いあっている。
その幻は本当に自然な光景で。
蘭は切なさに胸締め付けられる思いだった。

蘭が新一を異性として意識し始めたのが、今の新一の年頃で。
それから、10年の歳月が流れたのだ。

10年間、変わる事のなかった想い。
きっとこれからも、生涯抱えて行くのだろうと、蘭は思う。


「新一・・・騙して、ごめんね・・・私、本当に幸せだった。そして、勝手に貰ったんだけど・・・素晴らしい贈り物を、ありがとう・・・」


卒業式でもないのに泣くのは変だから、蘭は必死で涙を堪えていた。


   ☆☆☆


「そうですか・・・お気持ちは変わらないのですね。あなたは教師としてとても良い仕事をしていただいたし、これからも伸びる方だと思っていただけに、本当に残念です」

帝丹高校の横溝参悟校長は、蘭に向かって言った。

蘭は理事長室で、理事長や校長と話をしていたのだ。
既に2月末には、退職の意向を示し、届けも出してある。

校長が話をしている間、女性である木下フサエ理事長は、黙って穏やかに蘭を見詰めていた。

「ありがとうございます。けれど・・・教師の身で未婚の母になるのは、生徒達やご父兄の手前、示しがつきませんし」

そう言った蘭に、横溝校長が、真摯な顔で返す。

「いや、それは・・・便宜上毛利姓を名乗ったままとでも、何とでも説明は出来ますから」
「そこまで言って頂いて、ありがとうございます。でも、これからは暫く、子育てに専念したいのです」
「そうですか。残念ですが・・・頑張って下さい」

退職の理由を正直に告げると、非難されても仕方がないと思っていたのに、理解と暖かい励ましの言葉を貰い、蘭は嬉しかった。
蘭は深々とお辞儀をして、理事長室を去ろうとした。
すると、今迄口をつぐんでいた理事長が、声をかけて来た。

「毛利先生。10年前、あなたがここの生徒だった時に。あの事件に関して、我々は非力で何もしてあげられなかった。
裏事情を申しますとね。あの頃から既に、家守一族が、帝丹学園をほぼ支配していたのですよ。あなたを襲った連中は、表向き他校の生徒達だが、実は裏で家守一族と繋がっていた。理事のメンバーでも良心ある者達は、それを苦々しく思っていたが、どうにも出来なかったのです。
幸か不幸か、あなたが昨年ここに赴任してきた時は、家守理事はもうあなたの事を覚えていなくてね。だからあなたがすんなりここに就職出来た訳ですが。
あの時あなたを守ろうと動いていた、工藤優作さんのご子息が、この帝丹高校に生徒として在籍していて。そしてあなたがやって来た。
きっと、帝丹高校は変わる。我々は、そう思ったのですよ。そして期待通り、変わった。そこに何があったか、それを詮索する積りはありません。
まあ、あなたがどういったご事情で未婚の母という選択をなされるのかは存じませんが。あなたが、あの事件のトラウマを乗り越えて、人を愛し、母となる選択をされた事を、本当に嬉しく思います」

木下フサエ理事長はそう言って。
蘭を穏やかに見詰めた。

「詳しく全てをお話しするわけには参りませんが。私はここに来て、本当に良かったと思っています。ありがとうございました」

蘭はそう言って、再び深々と礼をして、退室した。
様々な人が見守っていてくれた事を知り、温かいものが心に満ちるのを感じていた。

『大丈夫。私にはたくさんの人がついていてくれるから。頑張れるよ、ね』

蘭は心の中で、お腹の中の子に向けて、話しかけた。


職員室で蘭は、荷物の整理を始めた。
事情は話してないが、3月末日付けで蘭が退職する旨は、職員には伝えてある。

鰐口が、蘭を傍に呼び、他の職員に聞こえない小声で話しかけた。

「毛利先生。ちょっと、帰りにお茶でも飲んで行きませんか?」
「ええ、そうですね。鰐口先生には色々お世話になりましたし、お話したい事もありますし」


仕事が引けた後、蘭は鰐口の車に乗り、米花ホテルの喫茶店に向かった。

「毛利先生。ちらちらと、ご懐妊されたという話を聞きましたが?」
「・・・人の口に戸は立てられませんね。ええ、仰る通りです」
「だから、お腹が目立つ前に。年度末というキリの良いところで、退職されると。で・・・これからどうなさるお積りです?工藤君は、来年度、18歳になりますが、それを待って入籍されるんですか?」
「いいえ。新一には何も言ってませんし、新一と一緒になる積りはありません。だって・・・新一はまだ高校生なんですよ?彼は、最初に私とそういう関係になった時から、責任を取る積りではいてくれてるけれど。名声を得ている彼の将来を邪魔したくはないですから」
「ああ、やっぱり。おそらくそうなのではないかと、思ってましたよ。あなたも思い詰めるタイプですからねえ」

鰐口は、そう言って息を吐いた。

「ひとつ。ご提案があるんですが」
「はい?」

鰐口が居住まいを正して言ったので、蘭も紅茶のカップを置いて居住まいを正した。

「毛利先生。いや、毛利蘭さん。俺と、偽装結婚する気はありませんか?」
「え・・・?」

思いがけない申し出に、蘭は一瞬固まってしまった。
これが、普通のプロポーズだったならば、逆にここまで驚かなかっただろうと思う。

「あ、あの・・・?偽装・・・結婚って・・・?」
「籍を入れて、式を挙げて。対外的には、私とあなたとが結婚したという形を取るんです。別に一緒に住まなくて良いし、実質的な結婚生活を望んでいる訳ではありません。
数年経って工藤君が充分大人になった頃合に、俺とあなたとは『性格の不一致による離婚』をして、あなたは工藤君と『再婚』するんです。これだと、世間の目とか色々な意味で、誤魔化しが利くとは思いますが」
「鰐口先生・・・でも・・・」
「勿論、良い事ばかりではありませんよ。あなたの戸籍に『傷がつき』ますしね。潔癖な工藤君が、それを我慢してくれるのかも分からないし。まあ、ベストだとは言わんが、ベターな案だと思いますがね」
「・・・多分、ものすごくありがたいお申し出なのだろうと思いますけれど・・・鰐口先生は、何故そこまで、して下さろうとするんですか?先生ご自身は、結婚は考えていらっしゃらないのでしょうか?この先、困る事もあるのではないですか?」
「幸か不幸か、今のところお付き合いしている女性も居ませんし。それに、そうですなあ。もし俺が毛利先生と偽装結婚した後、そういう女性が現れたら。その人には待って貰います」
「でも、それでは・・・」
「毛利先生。俺は工藤君やあなたと違って、流石にそこまでお人好しという訳ではありませんよ。俺はね。正直なところ、女性としてのあなたに少なからず好意を抱いている。だからまあ、あなたが数年の内に工藤君への気持ちに整理をつけて、俺との事を考えてくれるのなら、それはそれで嬉しいと、正直思う。それはまず有り得ないだろうが。
けどまあ、それ以上に。俺は、あなたと工藤君との絆に、夢を見ているんです。
2人の姿を見ていると、人間というものを、愛というものを、信じられる気がする。だから、2人にはずっと共に居て欲しい。
世間の心無い目に潰れてしまう程、あなた達は弱くはないと思うが、それでも、傷付きはするだろう。もし、2人を守る手段として適当だとあなたが判断するのなら、俺の存在を世間へのカモフラージュに利用して欲しい。それが、俺の気持ちです」

蘭は、目を見開いて鰐口を見た。
目を閉じて、ゆっくりと自分の中で、色々な事を考える。

『私は何も分かっていなかった。気付いていなかった。自分の気持ちの事しか考えていなかった。私はどれだけの人に大切にされ、見守られて来たのだろう。お父さんとお母さん、園子、鰐口先生、阿笠博士、校長先生、理事長さん、そして、新一にも。
私、本当に幸せだよね。だから・・・きっと、幸せになるわ。この子と2人、生きて行ける』

蘭は、涙を流しながら、深々と頭を下げた。

「鰐口先生。ありがとうございます。本当に心から、お礼を言います。
でも、私はたとえ名前だけでも、新一以外の人の妻になる気はないのです。でも今、新一と一緒になる事も出来ない。
だから、この子と2人、生きて行こうと思います。そして、新一が迎えに来てくれるのを待ちます。
でももしも、新一が過ぎる歳月の中で気持ちを整理して、他の女性と共に生きる事になるのなら、それは悲しく辛いけれど、それでも良いと思っています。
私は・・・こんなに大切にされて、愛されて。そして、素敵な宝物を貰った。それだけで、これからの歳月を生きて行けます。本当にもう、充分なんです」

鰐口は、蘭をじっと見据えて言った。

「あなたがそこまで心を決めているのなら、私から何も言う事はないが。工藤君は、果たしてどうなのかね?
今、彼の傍を離れる事が、本当に彼の為なのか、それを、あなたが決めて良いのかい?」
「・・・何が正しいのか、何が良いのか。私には分かりません。もしかしたら、明日後悔するかも知れない。でも・・・今は・・・」
「そうですか。まあ、人間の生き方はね、取り返しがつかない事でなければ軌道修正出来るものだから。頑張って下さい」
「はい。ありがとうございます」


   ☆☆☆


蘭は、鰐口と別れると、その足で実家に向かった。
今夜は最初から、実家に泊まる積りだったし、新一にもその旨伝えていた。

小五郎は喜んで、蘭を相手に晩酌した後、良い気分で早目に眠りに就いた。
蘭は英理が後片付けをするのを手伝い、ひと段落した後、2人でちゃぶ台を囲んでお茶を飲んでいた。

「お母さん。本当は、お父さんにもきちんと話をしないといけないんだけど・・・先に、お母さんに打ち明けておきたい事があるの」
「あら。蘭、どうしたの、改まって」
「お母さん。私ね・・・子供が出来たの」

英理が目を大きく見開いて、蘭を見詰めた。
英理はおそらく、どこかで薄々気付いていたのだろう。
全く予想外の事を聞いたという風ではなかった。

「で?蘭、どうする積りなの?」
「仕事は、今月末で辞める。一応蓄えもあるし、暫くは、親子2人で暮らそうと、思ってるの」
「そう・・・でも、いくら蓄えがあっても、色々と厳しいと思うわよ」
「うん。実はね、園子が・・・で、私、今回はそれに甘えさせて貰おうと思って」
「蘭・・・私も、出来る限りの手助けはするわ。でも、良いの?新一君には言わなくて」

蘭は流石に息を呑んだ。
英理は、長い間別居していたから。
園子のように、間近で蘭と新一を見ていた訳ではなかったから。
いくら母親といえども、まさか気付いているとは、蘭も思っていなかったのだ。

「お母さん・・・どうして・・・?」
「・・・これでも、私はあなたの母親よ。まあ、殆ど母親らしい事をしてあげられなかったけれど・・・」
「ううん、ううん。そんな事ない、お母さん・・・!」

思わず泣き伏す蘭を、英理は優しく抱き締め、背中を撫でてくれた。
新一にそうされる時とは別の心地良さに、蘭は身を委ねる。

「可哀想にね。たった10年、離れて生まれた、それだけなのに。こんな風に苦しまなくちゃいけなくて。でもね、蘭。きっと・・・きっと大丈夫よ」
「お母さん・・・」
「あと何年かすれば、釣り合いも取れるようになって来るわ。あなた達だったらそれだけの歳月を重ねても、きっと気持ちが変わる事もないと思う。蘭・・・きっと、新一君と子供と、一緒に暮らせる時が来るから・・・」

英理にこのような事を言って貰えるとは、蘭は夢にも思っていなかった。
ふしだらだとか、考えが甘いとか、もっと厳しい事を言われると思っていたのに。

「そうね。いずれ、有希子や優作さんがこの事を知ったら、力になってくれると思うし。問題は・・・あの人ね。それこそ、後先考えずに新一君を投げ飛ばしそうだわ・・・」
「そうね・・・今回の事は私の責任なんだけど。お父さんだったら、新一に全責任を押し付けそうだものね」
「でもまあ、私だって新一君を目の前にしたら、拳骨のひとつも落とすかも。避妊もせずにするなんて、何考えてるのって怒ってね。強姦とかじゃない限り、男女の責任はフィフティフィフティだと、頭では分かっているんだけれど」
「お母さん。フィフティフィフティじゃないわ。だった私、ピル飲んでるって、新一に嘘吐いたんだもん」
「あらまあそれは・・・で、蘭、淫行条例は当然、知ってるわよね?困ったわね、今の段階だと、どうしたって罪になるのは蘭の方だわ。いっそ、強姦されたんだって訴えてみる?」
「もう、お母さんったら。何を言ってるのよ!」

英理の言葉は、冗談交じりであるが、本音もそこに隠されているのだろうと蘭は思う。
きっとそれが、親の気持ちというものなのだ。

「蘭。ひとつだけ、予言しておくわ。あなたきっと、将来その子に苦労させられるわよ、間違いなく」

英理が蘭のお腹を指して言った。
蘭自身がどれだけ英理に気苦労をかけたのか、その一言で予想がついてしまい、蘭はいささか赤面せざるを得なかったのである。

「まあ、小五郎への対処は、おいおい考えましょう。今は体を大事にしなきゃ。今夜はとりあえずゆっくり休みなさい」


蘭が眠りに就いた後。
暗闇の中で蘭の寝顔をじっと見詰める人影があった。
蘭の母親、英理である。


「蘭。おそらく新一君も、10歳差のハンデを埋めようと、今、必死になっているわ。だから・・・後少しよ・・・頑張って・・・」

英理は蘭の髪を撫でながら、そう呟いていた。


   ☆☆☆


3月下旬となり、いよいよ蘭の勤務も後僅かとなった時。
蘭は、驚くべきニュースを聞く事になる。


最初蘭が聞いたのは、「工藤新一が3月末日付けで帝丹高校を退学する」という、とんでもないものだった。
蘭は最初、自分たちの事が明るみにでたのかと真っ青になった。
しかし、別に蘭に対しては全く矛先が向いていない。
それに、退学は学園側からの話でなく、新一自身から届けが出たものであったようだった。

そのニュースが囁き交わされている職員の間に、非難めいた言葉も残念そうな声もなく、喜ばしい事であるというニュアンスでの会話だったので、蘭はますます混乱した。

「凄いですよねえ、毛利先生!史上最年少の合格者ですよ!」

同僚が勢い込んで言う事が最初理解出来ず、蘭はポカンとしていた。

「え?は?史上最年少って・・・何の話です?」
「工藤君ですよ、工藤君!毛利先生は、ご存じなかったんですか?」
「だから、一体何のお話でしょう?」
「若干17歳にして、司法試験に合格したんですよ!」
「え・・・?」

蘭は、呆然としていた。
暫くその意味が分からなかった。

「え?は?司法試験・・・?」
「やだなあ、先生のお母さんも弁護士さんでしょう?弁護士・検事・裁判官になる為には、司法試験に合格しなければならない。一流大学の法学部を卒業していてさえ、合格が困難なあの試験に、工藤君が見事に合格したんですよ!」
「じゃあ・・・高校の中退は、その為に?」
「4月から、司法修習生として1年半の研修を受けなければなりませんからね。でも、帝丹高校にとっても名誉な事ですよ。だからあえて中退という形を取らせず、名誉卒業生としても良いのではないかという声が、理事の中からも上がっていますね」


蘭は暫く思考力が麻痺してしまっていたが、徐々に事態を理解し始めた。

「一体、いつの間に・・・」

蘭が呟くと、深い意味とは思っていないらしい同僚が、うんうんと頷いていた。

「探偵活動とかもろもろで忙しかった筈なのに。よくまあ、学校の成績も維持しながら、同時に司法試験の勉強もしていたもんですね。まあ我々凡人とは頭の出来が違うんでしょうけど。大学の法学部卒業生以外は、1月に行われる第1次試験から受けなきゃなりませんからねえ。それって彼が高校1年の時だから、工藤君は高校入学時点から、司法試験対応の勉強をしていた筈ですよ」

同僚のにわか知識によると。
司法試験第1次試験は1月に行われ、第2次試験は、5月に短答式試験、8月に論文式試験、10月に口述試験が行われるという事だ。
そして、最終合格者発表は、11月だと言う。

言われればなるほど、新一が書斎に夜遅くまで篭って勉強していたのは、試験前の時期であった事に蘭は気付いた。

『新一ったら・・・11月に発表があったのに、ずっと黙ってたのね』

新一は、高校に入学してから探偵として脚光を浴び始めたが。
司法試験の勉強も同時進行でやっていたとは。

蘭はくすぐったく誇らしく・・・そして少し寂しかった。



『新一。おめでとう。本当に、輝かしい人生を歩んで行くんだね。年は私が上なのに、ずっと前を歩いていて・・・私にはとても追いつけそうにないけれど。ずっとずっと・・・新一の活躍と幸せを、祈ってるよ・・・』



蘭が、行き先を告げずに工藤邸を去ったのは。
新一が司法修習生としての生活を始める、数日前の事であった。




最終回に続く

++++++++++++++++++++

<後書き>

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
私、何で蘭ちゃんをここまで頑固者にするかな。

いやだから、5年も待たせたりしませんって。

で、よく考えたら第9話には、新一君は名前だけで、登場していません(爆)。
次回は逆に、新一君視点に切り替わります。
次が、最終回です。


<解説> 「淫行条例」

都道府県により、正式名称や細かい内容は異なる。
概ね、「18歳未満の青少年を、淫行又はわいせつの対象とする事」を禁止し、違反したら処罰の対象となるというもの。
多くの条例では相手が「合意の上での恋人同志であろうと」、禁止の対象になる。例外は「親も認めた婚約者である」場合のみ。

青少年の保護という点では賛成しつつ、その運用や禁止内容に対し、批判や改正運動もあるが、ここでは触れない。

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