あなたしか見えない



byドミ



(7)理解者



「蘭・・・くっ・・・」
「あ・・・はあっ・・・しん・・・いち・・・」

蘭は何度も何度も新一に求められ、そして貫かれる。
新一が蘭を際限なく求めるのは、新一の若さゆえの欲望の強さだと、蘭は思っていた。

それでも、新一の力強い腕に抱かれて。
肌を触れ合わせて。
新一に何度も自分の最奥を貫かれるのが、とても幸せだった。

こんな事は、他の男となど決して出来ない。
だから、新一がやがて自分の本当の相手を見つけた時、蘭は1人で生きて行くつもりだったけれど。

やはり1人だけでずっと・・・というのは想像するだけで寂しいものであった。




新一は、蘭との行為が終わると、自身に嵌めていたゴム製品を外した。
新一がそれを決して欠かす事はない。
蘭が安全日と主張しようが何だろうが・・・である。

蘭とて、「安全日」などない事は知っている。

新一が避妊を欠かさないのは、蘭への優しさと気遣い、生まれ得るかも知れない命に対しての配慮であろう事は、蘭にも分かっていた。

今の蘭が、「避妊の失敗」を望んでいるなど、新一はきっと想像もしていないだろう。
蘭がいずれ来る別れを予感して、その前に新一の子供が欲しいと思い詰めているなど、誰も知る人は居ないのだった。









翌朝、別荘を後にして、新一と蘭は蛙原と共に、運転手付きの車で蛙原がオーナーをしているホテルへと向かった。




「実は、私がこのホテルを手に入れたのは最近の事なのです。小さいが歴史あるホテルなんだが、前オーナーが経営に行き詰って手放しましてね。もっとも、ホテルの類は、いくらバブルがはじけても、余程放漫経営でない限りやって行ける筈なんだが。皆、過去の美味しい時代を下手に経験しているだけに、まともな経営能力もないんですなあ」

蛙原氏の半ば自慢とも言える話に、蘭は半ば辟易しながら付き合っていた。
ホテル自体は、歴史が古いホテルの雰囲気と、近代になって手を入れた機能的な部分を併せ持った、なかなかに洒落た良いホテルだと蘭は思う。

「本当は、こちらのホテルに泊まって頂きたかったのですがね。流石に今空室はない状態でして。問題の部屋も、予約が入っています。お客さんがチェックインする時刻が遅い為、昼間に調査頂ければと思っております」

いつも予約でいっぱいだというこのホテルだが、宿泊料は半端ではなく、蘭は、自分が自腹を切ってここに泊まる日は来ないだろうなと考えていた。

「この部屋です」

そう言って蛙原氏が扉を開けた。
途中から話を聞いていなかった蘭は、何の事か分からなかったけれど。
取りあえず蛙原氏と新一に続いて部屋に踏み込んだ。

「私がこのホテルを手に入れる前、今から5年前に、荷物や宿泊代以上の現金が入った財布等を全部置き去りにしたまま、この部屋から忽然と宿泊客が姿を消しました。
フロントの者が常駐していた筈なのに、誰にも見られる事もなく。
非常口が使われた形跡もなく、窓からの出入りがあった様子もなく、姿を消したのです。
宿泊名簿の住所氏名はでたらめで、身分証明書の類もなかったので、どこの誰かも分からないままでした。
どこからも捜索願なども出ておらず、結局警察も通り一遍の捜査をしただけで、事件ではなく、結局、客がこっそり出て行ったのをフロントの者が見逃したのだろうという事になりました。
しかし、ほんの2ヶ月前、また同じような事件が起こりました。いや、事件とは言えないのかも知れません。警察はまたしても同じ結論を出しました。
しかし私としては非常に気になっています。何故なら、同じ部屋での出来事だったからです。何よりも、私は今のスタッフを信頼していますからね。彼らが出て行った客を見ていないと言うのなら、本当にそうなのだろうと思います」

何とも不思議な話だった。
新一は、早速部屋を色々と調べてみた。
蘭も手伝うが、ホテルのスタッフも気付かないような手がかりが、そうそう見つかる筈もなく。
すぐには事件の謎が解けそうになかった。



そして、日は傾き。
新一はまだそこに残って調査を続行するが、蘭は一旦宿泊部屋に戻る事になった。







新一が事件の謎を解いたのは次の日だった。
謎の宿泊客は、別の部屋と二重に予約して宿泊していた。
窃盗団の一人が、盗み出したものを山の中に隠し、その手がかりとなるものをこの部屋に残していたのである。
仲間割れや仲間内での殺人の挙句、残ったメンバーがここにたどり着き、手がかりを探したが見つけられず。
結局、残した手がかりは、新一が先に見つけてしまった。

そして後日、窃盗団の残ったメンバーが警察に捕らえられる糸口となり、新一の名声は更に高まる事となったのだった。

しかしそれはまた別の話。



今は、蘭が新一と取りあえず別れ、1人先に宿泊部屋に帰る事となったのである。



「蘭。送っては行けねえから・・・タクシー拾って帰れよ」
「ん、わかった」

蘭がそう返事をすると、新一は蘭を抱き寄せて口付けた。

物陰とは言え、ホテルのロビーの一角。

「新一・・・人に見られたら・・・」
「蘭が、困る?」


新一の深い色の瞳に見詰められて、蘭は答えに窮する。

「新一が・・・困るんじゃないの・・・?有名人だし・・・」
「オレは、良いんだよ・・・自分の始末位は自分でつけられる。誰にも何も言わせたりはしねーから」

そう言って新一は、もう一度蘭の唇を奪った。


東京から遠く離れている筈の場所で。
2人共に油断はあったのかも知れない。



まさかそのような場所で、2人を知る者が2人の口付けを目撃していたなど、一体、誰に予測出来ただろうか?




ホテルの受付で蘭がタクシーを呼ぼうとしていると、突然背後から声を掛けられた。

「毛利先生。ひょんな所でお会いしますなあ」
「鰐口先生!?」

蘭は驚いて息を呑んだ。

「私は妹の結婚式に出席する為にこちらに来たんですが・・・毛利先生は?こちらのホテルにお泊りなのですか?」
「いえ、わ、私は・・・」
「工藤君と、2人きりでここへ?」

鰐口が声をひそめて言った事に、蘭は更に息を呑む。

「あんな所で・・・工藤君とも思えない無用心さですね。こんな所に知り合いが居る筈などないという油断でしょうが」

蘭は、自分の顔から血の気が引くのが分かった。

「ところで・・・毛利先生のお泊りはこちらではない、という事ですが。もしかして、タクシーで宿泊先まで行く予定だったんですか?」

鰐口の言葉に、蘭は無言で頷く。

「良ければ、・・・私はここまで自分の車で来てるんで、送りましょうか?」

蘭は顔を上げて鰐口の顔を見た。
鰐口が何を考えているのか、表情は読めない。

蘭は、鰐口がどこまで知っているのか、気付いているのか、気になったのと、「口止めしたい」という意識が働いて、鰐口の申し出を受ける事にしたのである。





車はさわやかな高原の風の中を走って行く。
蘭は鰐口の車の助手席で、身を硬くしていた。

蘭はとにかく新一の立場を守る事しか考えていない。
その為に何をすべきか、妙案はなかったが、色々思い煩うよりも、とにかく鰐口がどこまで何を知っているのか、知るのが先決だと思った。

考えたくはないが、もし鰐口が蘭の弱みにつけこんでけしからぬ振る舞いに及ぼうとした場合は、本気で空手業を使ってもそれを避ける積りではいる。

新一以外の人に触れられるのは絶対に嫌だというのが1番の理由。
それと、相手の脅しに屈して言うなりになった場合、「1度では済まないし、全く解決にならない」事を知っているからでもあった。




「それにしても、毛利先生は本当に無用心だ。私が誘っておいて何だが・・・その気がない男性相手に、2人きりになるもんじゃない。車の中など密室も良いところだ。もしオレが人気のない所で車を止めて襲い掛かったら、どうする積りです?自慢の空手技も、こんな狭い空間では効果的に発揮出来るとは思えない」

運転しながら、鰐口が口を開く。
鰐口の言葉に、蘭はムッとして返した。

「私も、誰の車にでもホイホイ乗るという訳でもないですが。鰐口先生を信頼して、車に乗ったのではいけませんか?」
「それが本当だったら光栄だが。毛利先生にそこまで信頼して貰えてるとは思えないが、まあ良いでしょう。
知り合いの男性を信頼した挙句に密室で乱暴されるというのは結構よくある話でしてね。レイプ犯が知人であるというのは実に多いんだ。しかしその場合でも、『信頼』が『軽はずみ』『隙がある』と取られてしまう事が殆どですよ。
自分の身を守る為には、相手が信頼出来る男性だと思っていても、密室に2人で篭るような真似をしてはいかんのですよ、悲しい事だが」
「それは・・・」
「こう言っては何だが、毛利先生には警戒心が足りないように見受けますね。それは信頼出来る人格者の男性に囲まれて過ごして来たからだと思うが。でも毛利先生は今迄乱暴されかけた事はたくさんあったでしょう、幸い、いずれも未遂で終わったようだが」

蘭には、鰐口がそのような話をする意図が分からなかった。
けれど、確かめなければならないと思った。

新一の今後を邪魔させない為にも。


「鰐口先生は、何故私の過去をご存知なんですか?」

蘭は思い切って、そこから話を切り出してみた。
運転している鰐口の横顔は、全く動揺している様子もなかった。

「・・・最初に毛利先生が帝丹高校に赴任してきた時、どうやらオレの事など覚えちゃ居ないようだと思っていたが、やはりね。まあ、覚えられてなくても無理はない、直接毛利さんのクラスの授業を受け持った事はないんでね」

そう言って、鰐口が苦笑した。

「え・・・?」
「オレが大学卒業後すぐ帝丹高校に赴任した時は、毛利さんはそこの2年生だったよ。毛利さんは色々な意味で目立つ子だったから、直接授業をやった事はなくても印象には残ったが・・・あの事件がなければオレは、毛利さんの事は忘れてしまっていただろうがね」

蘭は驚いたが、鰐口の年齢を考えると、成る程と思った。

帝丹学園は私立で長く勤めている教員は多い。
蘭の同僚には、かつて蘭に授業をした、蘭のクラスの担任をした、という先輩教員が何人も居た。
直接蘭のクラスの授業を受け持った事がない新任教師の事を、蘭が覚えてなくても無理はなかったのであるが。


「毛利さんが他校の男子生徒数人から乱暴されそうになったあの事件、警察の尽力で表沙汰にはなってないが、当時の帝丹学園職員なら皆知っているんですよ」

蘭は大きな衝撃を受けた。
あの事件は表沙汰にはなっていない。

まさか当時の帝丹高校職員が皆知っていて、知らぬ振りをしていたなどとは、想像もしていなかったのだ。

「問題の男子生徒達が居た高校側からも、くれぐれも表には出さないでくれと頭を下げられて・・・当時新任教師だったオレは、どちらの学校も自分達の体面しか考えていないと不快に思ったものだった。まあ、毛利さんの事を考えるなら、表に出さない方がそりゃあ良いに決まってるが。
たとえ、実名を伏せたとて、そんな話はどこかから漏れる。実名を伏せてもそんな話が明るみに出れば、絶対に毛利さんが傷付く事が目に見えてるし、帝丹高校に居続ける事は難しくなったでしょうな」

では、当時の担任も、他の教師も・・・そ知らぬ振りをしていたのかと、蘭は思う。
彼らは今も、そのような事をおくびにも出さず、同僚としての付き合いをしていたのだ。

けれど彼らは、ただ単に、そのような事は覚えていないのかも知れない。
そもそも蘭が帝丹高校卒業生である事を覚えている教師の方が少なかったから。
それとも・・・覚えていても、事件絡みで知らん振りをしていた者も、中には居るのかも知れなかったが。

「他の教師がどういうつもりで居たのかは、オレには分からんですが。事なかれ主義ってやつかも知れんが、それはそれで別に良いかとも思う。下手に暴いても被害者を傷付けるだけかも知れんから。
ただ、表沙汰にしないという事は、加害者が大手を振ってその後ものうのうと過ごすという事にもなる。それはどうかと思ったんだが・・・流石に、警察に知り合いの多い毛利小五郎と、警察に発言力を持つ工藤優作だ。
その男子生徒達は、のうのうと何事もなかったかのように過ごす事は出来なかったよ、何があったかは敢えて言わんがね。
あ、失礼。こんな風に言ったからって、オレはそれについてどうこう思っちゃいない。ただ、被害に遭っても泣き寝入りせざるを得ん人が多い中で、少しばかり羨ましく感じたのは事実だが。別にだからと言って、逆恨みするなんて馬鹿げた事をするつもりは毛頭ないんですよ」

鰐口の「逆恨み」という言葉が、引っ掛かった。
では、鰐口は・・・。


「鰐口先生には、泣き寝入りをしなければならなかった事が、あるんでしょうか?」

蘭が思わず問いかけると、鰐口は前を見据えて運転しながら質問の答とは別の言葉を返した。

「あなたの見かけによらず、思慮深く頭の良いところ、オレは好きですよ。あ、見かけによらずという言い方は失礼。ただ、実際の年より若く清純そうな見かけは、『世間知らず』という印象を与えるもんでね」

蘭は鰐口が質問をはぐらかしたような気がした。
その悪質な冗談とも思える言葉に、頬に血が上る。

「鰐口先生!冗談は止めて下さい!」
「別に冗談の積りでもないんだが。さっきの質問の答は、実はイエスだ。
今日結婚式を挙げた妹は、父親違いで私と苗字も違い、年も離れていた。毛利先生と同い年だから、結構重ねて見ていた部分もあるね。
妹には、親の事情はともかくも兄としての愛情を持っていたし、滅多に一緒に過ごす事もなかったが、それなりに可愛がっても居た。
兄の眼から見ても容姿は悪くなく、そこそこもててもいた様だが、今の時代には珍しく固い考えの持ち主で、成人してもまだバージンだった。恋人もいたが、恋人も妹の考えを尊重してくれて、清い付き合いだった。
その妹が、5年前・・・22歳の時に乱暴され、全てを失った。純潔も、恋人も、人としての誇りも」

あまりの事に蘭は息を呑む。

鰐口の語りはその内容に比べあまりにも淡々としていた。
しかしだからこそかえって、その痛ましさが蘭の胸に突き刺さったのである。


「私は、兄として何もしてやれなかったのが悔しかったよ。何よりも悔しかったのが、妹の全てを奪った男が目の前に居るのに、そいつに何も出来ない自分自身だった。妹への愛情より、自分の保身の方が大切なのだと自覚して、やり切れない思いだったよ」
「で、でもそれは・・・仕返ししても、何にもならないものですし・・・」

蘭は辛うじてそれだけを言った。
鰐口は微かに苦笑いする。

「勿論、復讐等したところで、妹への慰めにすらならない事は解っているよ。それでも、自分で納得が行かなかったのだよ、オレはね。
妹を辱めた相手はまだ中学1年の子供だった。だから犯罪と立証されたとて、どうしようもなかったのは確かだ。しかしそもそも犯罪としてすら認めて貰えなかったのだよ。相手は有力者の息子で、しかも密室での出来事だったし。妹の方が成人していたから、そちらが誘惑したのだろう、反対に訴えると脅されて・・・何もかもが不利だった」


蘭は暫く沈んだ気持ちで黙り込んでいた。
そしてふと恐ろしい事実に思い当たる。
5年前当時に中学1年だった相手の男というのは・・・。


「ま、まさか・・・家守君が・・・?」
「やはり君は頭が良いね。そう、そのまさかだ」

思わぬ事実に、蘭は息を呑んだ。

「妹は大学の学生課で家庭教師募集の掲示を見て、その条件の良さに家守宅を訪れた。だがあの家では、最初から息子の『体験』相手として与える積りで、女学生『家庭教師』を募集していた。
他の女学生は、皆金で割り切って家守の『お勉強』の相手をしていたが、妹は世間知らずという事もあり、その含みに気付かなかった。ならば妹の事など相手にせずとも良いものを、あの男は・・・っ!金で言いなりにならない、嫌がる女を無理に屈服させる事をゲームのように楽しむ為に、薬を使って妹を・・・っ!」

流石に鰐口の声に感情が混じり、ハンドルを握る手が力が入り過ぎた為か白くなった。
車が一瞬コントロールを失って車線からはみ出しそうになった。

蘭は呆然とした。
鰐口の、爬虫類めいて見える目の奥にあったものを、初めて垣間見たような気がした。


「その当時は、何もかもが厭わしく、人間不信になったよ。
オレを置いて家を出て他の男と結婚した母親も、以前は恨んだりはしなかったが、妹の事件の時母親らしく庇ったり守ったりする姿は皆無で、その事にも腹が立ったし。
妹が純潔をそんな形で奪われたと知るや、言を左右して妹から離れて行った恋人にも言いようのない怒りを覚えた。
何よりも、自分の保身しか考えられない自分自身が、1番嫌だったがね」
「で、でもそれは・・・」

蘭は何か言おうとして口をつぐむ。
何を言っても、ただの気休めで無駄のような気がした。


「毛利先生。あんたは、本当に優しい種類の人間だ。相手に自己満足だけの為に一見優しい言葉をはいたりしない。
もっとも、あんたのそういう面を見たのは、帝丹高校に教師として赴任して来てからだがね。あんたは、教師としてはとても良い人材だと思うよ。けどどちらかと言えば、小学校教師の方が良かったんじゃないかね?」
「そうでもありません。私の良かれと思ってやっている事が、やはりお節介でしかない生徒達も大勢居ますし」

蘭はいつしか、鰐口を1人の教師・人間として、信頼出来るという気持ちになって来ていた。
体の強張りも殆ど解けていた。

「そりゃあ、全ての生徒に信頼されるなんて無理な話だ。人間だから、誰からも分かって貰おうなんて思っちゃいけない。
時に分かってもらう事があるだけで、それだけで良いと思わんと、やって行けませんよ」

蘭は大きく頷いた。
生徒の相談に乗るのも、優しい言葉をかけるのも、自己満足ではいけないのだ。
だから、時に分かってもらうだけでも幸運と思わなければ、と蘭は考えていた。


「そうそう。工藤君の事だが」

再び蘭の体が強張る。
既に鰐口に対してはかなり信頼感が出来ていたのだが、それでも新一の名前が出ると平静では居られなかった。

「最初、オレは工藤君が大嫌いだった。ちょっとばかり頭が切れても、高校生探偵などと持ち上げられて、天狗になっているだけの若造としか思えなかったからね」

鰐口の言葉は、特に意外でもなかった。
そのような気持ちを抱く人は確かに居るだろうと思えたから。

新一は、ただでさえ敵を作りやすい。
妬みなどで理不尽な恨みを買う事だってある。
年齢が若い故に更に人望を得るのが困難な部分もあると思う。


しかし、その後の鰐口の言葉は、蘭の予想を超えたものだった。

「オレの、奴への見方が変わったのは。
10年前の事件の時、やつが何をしたかを知ったからですよ」
「え・・・?」

蘭は思わず声を上げた。
10年前の事件とは勿論、蘭が襲われた事件を指すのであろう。

「たった7歳のガキが、体を張って1人の女性を守ろうとしたなんて、泣かせる話だ。オレはただ1人の妹を守る事も出来なかった上に、妹を酷い目に遭わせた相手に何も出来ないで居る自分を、ますます恥じる事になったよ。
そうやって改めて工藤の姿を見ていたら、本当に真摯に事件に取り組んでいる事や、まあまだ若いから考えは青臭いが、それでもやつなりの強い正義感を貫いている事が解って来た。
サッカーをやってたのは探偵として必要な運動神経をつける為、という奴の台詞に以前なら反感を持ったと思うが、大切な人を守る為には体力的にも強くなるのが必要、と奴が考えたのも頷ける。
工藤には親の七光りが充分ある筈だが、普段はそれに頼らず・・・しかしいざとなれば自分のプライドより他人の助力をきちんと仰ぐ姿勢にも好感が持てた」

そうだったのか、と蘭は思う。
鰐口が探偵としての新一を買っているのは、本心からの事だったのだ。

もっとも鰐口は、おそらく新一にそれを知らせるつもりもないし、歓心を得ようなどとは更々思っていないのであろう。

蘭は、思いがけない所に新一の(ある意味)真の理解者が居た事を、心の底から嬉しく思っていた。

「そして、工藤の力を知る中で、ひとつの希望が生まれた。工藤なら、いつか必ず家守を何とかしてくれる、とね。
そしてそれは果たされた。だから工藤には感謝している。
勿論、工藤に取ってはオレのそんな復讐を肩代わりして貰ったという気持ちは、唾棄すべき下劣な考えだろうし、オレからの好意など迷惑以外の何物でもなかろうが」
「・・・鰐口先生は、家守君達の犯罪を暴いたのが、しんい・・・工藤君だと?」
「ああ。そう思ってますよ。他に誰がいる?他の奴には絶対無理だ。ただ、流石の工藤も、犯罪の匂いがしない限りは動かんと思うが。家守も工藤に尻尾を捕まれるなんざ、どんなミスを犯したんだか。まあ敢えてそれを知ろうとも思わんですがね」


蘭は複雑な気持ちで黙っていた。
犯罪に対する報復主義は、蘭も好きではないが。
犯罪が暴かれなければ繰り返されていた、と思えば、どこかで家守達の犯罪が暴かれる必要があったのだと思う。

5年前、家守に踏み躙られて人生を滅茶苦茶にされた鰐口の妹は、立ち直る事が出来るのであろうか。
そう考えた時、ふと先程鰐口が「妹の結婚式」と口に出した事を思い出した。


「鰐口先生。妹さんは、その・・・結婚なさった・・・んですよね・・・?」

蘭がおずおずとそう言うと、鰐口は僅かに口元を綻ばせた。

「ああ。妹の全てを受け入れて包んでくれる男が現れましてね。妹も心を開くまでに随分掛かったが。昨日の結婚式では、本当に晴れやかな笑顔を見せてくれた。
だからオレは、家守の顛末など、あの子に話す気はないです。あの子には全て忘れて吹っ切って幸せになって欲しいと思ってますんでね。
あ、そこの教会ですよ。昨日妹の結婚式があったのは」


鰐口が通りすがりに顎で指し示した教会は。
蘭が昨日結婚式を目撃し、幸せそうな花嫁・花婿に自分と新一の姿を重ねて夢想してしまった、あの結婚式が挙げられていたところだった。

一点の曇りもなく幸せそうに微笑んでいた花嫁が、では5年前に家守に踏み躙られた鰐口の妹だったのか、と蘭は衝撃に近い感動の思いで知る。


「良かった・・・昨日偶然お見かけしたんですけど、幸せそうな笑顔でしたわ、先生の妹さん」

鰐口は運転しながら、一瞬ちらりと蘭の方に視線を寄越した。

「あんたのそういうところが・・・本当にすごいと思うよ、毛利さん。あんたと工藤君だったら、おそらく踏み躙られてもそこから立ち直って行けるだろうが。まあ、あんな思いをわざわざ経験するこたあない。
ところで、毛利先生は当然『淫行条例』(注)の事位は御存知かと思うのだがね。工藤君が18歳になっても、2人の関係が知れれば世間からは袋叩きだろう。
工藤君との事は頑張って隠し通しなさい、出来れば彼の成人まで、少なくとも彼が高校を卒業するまではね」

蘭は青くなった。
やはり鰐口には見られていたのだ。

「わ、鰐口先生・・・!お願いですから、誰にも黙っていて下さい!」
「・・・オレは別に誰にも話そうと思わんが。あんな場所でいちゃついたりせん方が良いですよ。世の中は広いようで狭い。どこで誰に見られてるか、分かったもんじゃない」
「もし知れたら、新一は・・・新一の探偵生命に傷が・・・」

鰐口の呆れたような声もろくに耳に入らず、蘭は懇願するように言った。

「工藤君の探偵生命?そんなものより、あんただよ。手を出した相手が生徒だから教師生命は絶たれるし、淫行条例違反で下手したらお縄だ。世間からだって、年上のあんたの方から誘ったと見られる。明るみに出て困る事になるのは、あんたの方だ」
「わ、私は・・・私から誘ったのも本当だし、世間で後ろ指さされても私の責任だから、良いんです。でも、新一は・・・スキャンダルは絶対に新一の足枷になるもの・・・」

蘭はそう言いながら泣きそうになった。
自分の存在が、新一の足枷になるのかも知れない。
そう思ったのだ。

鰐口は苦笑して言った。

「やっぱり。察するところ、あんたが信を置いていないオレの車に乗ったのは、工藤君との事を見られたのを知って、口止めする為か。
オレが、黙っておくのと引き換えにとんでもない取引を持ち出したらどうするつもりだったんだね?それこそ、オレの車に乗って交渉するより工藤君に打ち明けて善後策を練る方が余程安全だろうに」
「で、でも・・・っ!」

蘭は思わず声を上げたが、鰐口はまあまあと宥めるような仕草をした。

「工藤君とオレとでは、工藤君の方がずっと強かで頭が切れる。あんたが危険にさらされる事なく事態を解決する方法位、すぐに考え出す筈だよ。あんたは恋に目が眩んで、やつに迷惑をかけないことばかり考えているが、年は若くても奴は百戦錬磨、あんた1人で事態の解決を図ろうとするより余程安全だと思うよ。
まったく・・・信頼しろとは言わないが、オレは誰にも言う気はないから、その点だけは安心しなさい。
とにかく、今後は気をつける事だ。そしてオレからの忠告。1人で動かず、工藤君に相談しなさい。あいつはそれに応えられるだけのものを持っている」

新一に、相談する?

蘭は、不思議な思いで鰐口の言葉を聞いていた。
今までそんな事を考えた事もなかった。
新一に迷惑をかけてはいけないと、そればかりを考えていたから。


「でも・・・新一と私は・・・恋人同士なんかじゃない・・・ただの・・・姉と弟のような関係で・・・」
「あのな。本当の兄弟なら、そういった欲望の対象にはならんよ。自分を誤魔化すのはよしなさい。
たった7歳の餓鬼の時に体を張って守る、それだけなら『姉』相手でも出来るかも知れんが。そういう相手と一線を越えるのなら、それは兄弟ではない。
あんたが自分から誘ったんだとしたら、きっかけがどうであろうとあんたにとって工藤君は弟ではないのだろう?工藤君にとっても、あんたは最初から『姉』などではない筈だ」

蘭は小さく頷いたが、心の中では、新一にとっての蘭の存在はそういうものではないと頑なに思い込んでいた。

蘭はいまだに、新一が蘭を初めて抱いた時の事は、蘭が新一の「17歳男子の生理的状況」につけ込んだ結果だと思っていたからである。

蘭が新一とほぼ同棲状態となった時、新一の部屋には怪しいビデオも雑誌も何もなかったのだが。
他の男性と付き合った経験皆無の蘭は、その事にすら気付いていなかった。


工藤新一がこの世でそういった欲望を抱く相手はただ1人、毛利蘭という女性である事。
もし他の女性だったらあのような状況で迫ったとて、冷たくあしらわれたのが落ちであるのみならず、そもそも新一のものが反応すらしなかったであろう事。

それを、蘭は全く知らなかったのである。



(8)に続く



++++++++++++++++++++

<後書き>

うむむ。
核心に近付いてきた、かな?

毎度毎度、(蘭ちゃんの気持ちが)とても痛い話で、本当にすみません。
全てが収束して蘭ちゃんが心の底から幸せになれるのは、最終回です。

でも意外と最終回は近い、かも。

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