あなたしか見えない




byドミ



(最終回)巡り会えた幸せ



新一は、4月1日から、司法修習生として埼玉にある研修所に通い始めた。
合宿所に入る事も可能だが、今は、自宅を離れる気にはなれなかった。

『暫く1人になって考えたいので、ここを出ます。今迄色々ありがとう。そして、ごめんね。 蘭』

蘭が、短い書置きを残して姿を消してしまった事は大きな衝撃だったが、どこかで予測していた事でもあった。
焦燥感はあるが、今は、きちんと自分のすべき事をしなければならない。
高校生探偵としての名声を博している新一は、史上最年少の司法試験合格者として、今は更に世間の耳目を集めている。

世間の耳目など、普通であれば気にならないが、今は蘭との未来が掛かっているから、司法修習生としての勤めはきっちりと果たし、最終試験に合格しなければならない。

自分が今すべき事を間違えるような新一ではなかった。
が・・・。

蘭が今、ここに居ない。
それがこれ程に堪える事だったとは、と改めて実感する新一であった。

工藤邸の台所にもリビングにも、寝室にも。
そこかしこに蘭の気配が残っているのに。
蘭は今、ここに居ない。


『蘭・・・待ってろ・・・ぜってー追いついて捕まえてやっから。今度こそは、ぜってーオメーの手を離さねーからな!』

ともすれば、ぐらつきそうになる自身を励ましながら。
新一は、蘭との未来を手に掴む為に、今を過ごす。


そして新一は、ただ座して待つ積りはなかった。
週末には、蘭の行き先の手がかりを求めて、活動する予定だった。



   ☆☆☆



「新ちゃ〜〜ん、ただいま、元気だったあ?」
「母さん!?」

新一が司法修習生としての生活を始めて間もない、最初の土曜日に。
今から蘭を探しに出かけようとした新一の機先を制するかのように、母親である有希子が工藤邸に現れたのである。

「何しに来たんだよ?」
「あら。ご挨拶ねえ。自分の家に帰って来るのに遠慮がいるの?新ちゃんってば、1年ぶりに帰って来た母親に対して、冷たい。冷た過ぎるわっ」

有希子がよよよと大袈裟に泣き崩れたのを見て、新一はウンザリした。

新一にとって母親である有希子は勿論大切な存在であるが、こうやって芝居がかった態度を取られるのは苦手なのである。
有希子の言葉は、芝居半分、本音半分と言ったところか。
気持ちは嬉しいが、18歳にも満たない新一には、母親の愛情が鬱陶しくなる事がある。
強く反抗するまでには至っていないが。


「父さんは?一緒じゃねえのか?」
「何よ、優作と夫婦だからって、いつもいつも、金魚のフンみたいに一緒という訳じゃないのよ」
「・・・ま、良いけど。でも何か、用事があったのは確かだろ?オレも・・・母さん達には腹割って話してえ事があったしよ」
「そうそう!新ちゃん、水臭いわよ!見事に司法試験に合格したって事、何で教えてくれなかったのよ?」
「ああ・・・それか・・・」
「で?新ちゃん、弁護士になるの?それとも検事?裁判官?」
「・・・取りあえず、数年間は弁護士」
「ふっふ〜ん、成る程ねえ。やっぱ新ちゃんのなりたいものは、あくまで探偵で。司法試験はその通過点なのね。司法試験に合格して弁護士とかになる事を生涯の目標にしている人達からは、恨まれそうねえ♪」
「・・・少しでも早く。社会的・経済的に自立する必要が、あったんだ・・・」
「ふ〜ん・・・」

有希子が、やけに真摯な目付きで新一を見詰めてきた。

「新ちゃん・・・新一。何故そこまで、背伸びをしようとするの?あなたは、高校生探偵として既に名声を博している。大の大人達に混じって、堂々と渡り合っているわ。素晴らしいと思う。でも、あなたはまだ、18歳にも満たない青少年なのよ」

有希子の真摯な問いかけに、新一は顔を歪める。

「・・・自分の人生だけを考えるのなら、そんなに急ぐ積りは、なかった。けどオレは・・・18歳になると同時に、成人と対等以上の資格を得て。社会人として独立したかったんだ・・・」

有希子が手を伸ばして来て、新一の頬に触れた。
有希子は女性としては長身の方だが、流石に少しばかり新一を見上げる形になる。

「新ちゃん。あなたは、私達が結婚して10年後、やっと授かった子供だった。でも・・・きっと、10年・・・ううん、せめて、数年早く、あなたを産んであげられてたら。あなたの今の苦しみは、なかったの・・・?」

涙ぐみながら、そう言って新一の頬を撫でる有希子の姿に、新一は胸詰まらせた。
今の有希子の涙が、決して芝居ではないと分かったから。


「母さん・・・そうじゃねえ・・・父さんと母さんには、オレをこの世に生み出してもらった事、どんなに感謝しても足りねえって思ってるよ。オレが何かで苦しんだとしてもそれは母さん達の所為じゃねえし、それにオレは・・・きっと色々な意味で・・・幸せなんだと思う」

「そう・・・」

有希子は愛しそうに、我が子の髪を撫でる。その為には多少背伸びをしなければならなかったが。

「子ども扱いは、よしてくれよ・・・」
「新ちゃん。あなたがまだ10代だからじゃなくて。親にとってはいつまでも、子供は子供なのよ・・・」
「子供が結婚して孫をもうけて、中年になって、それでも・・・?」
「ええ。それでも、よ」

新一は一旦目を伏せると、顔を上げて言った。

「なあ、母さん。オレが結婚してえって言ったら、どうする?18歳の誕生日はもうすぐだけど・・・まだ親の同意が必要だし」

すると有希子は、にやっと笑って言った。

「やっぱり。何とな〜く、そんな事じゃないかって思ってたんだ〜。まあ、状況と相手次第よ。司法修習生は給与が貰えるけれど、その収入だけでやりくりするのは苦しいわよね。でも、ここに居れば家賃・光熱費がかからないから、2人暮しには楽勝だし、ここを当面新居としたら良いわ。優作と私は滅多に帰って来ないし、新ちゃん達に引き続き管理がてら住んで貰った方がこっちにも都合が良いし。で?同級生か下級生にでも手を出して妊娠させて、責任取ろうかってとこなの?相手の親御さんに怒られるのは、覚悟の上でね〜」
「か、母さん・・・!そんなんじゃ・・・!」

そう否定しながら新一は、ある意味似たようなものか?と少し考えた。

「冗談よ。蘭ちゃんでしょ?」

有希子があっさり言ったので、流石に新一はひっくり返りそうになる。

「かかか母さん・・・!どうして・・・!?」
「・・・ふうん。暫く半同棲してた、ってとこ?家の雰囲気が随分違う、女性の手が入ってるわね」

新一自身が感じていた、そこかしこに今も漂っている蘭の気配を、有希子も感じ取ったのだ。
蘭は1年近くこの工藤邸で過ごしていたのだ。
有希子がその気配を感じない筈などなかった。

新一は頭をガシガシと掻いた。

「母さんが気付いてるって事は、当然、父さんも、だよな」
「まあねえ。ずっと、新ちゃんが蘭ちゃんをどういう風に見詰めてきたのか、私達は見て来たし。新ちゃんの場合は、蘭ちゃん以外の女性とだったら、間違っても間違いを仕出かしそうじゃないし。でも、きっとその想いが成就する事ってないんだろうなって悲しく思ってた。年頃になってどんどん綺麗になって行く蘭ちゃんが、10歳も年下の子供の想いに応えてくれる事は、多分流石にないだろうってね」
「母さん・・・」
「私は英理と小五郎君とは同級生で、結婚したのも同じ時期だったのに。新ちゃんを産むのに10年も掛かってしまったから、新ちゃんの苦しみの原因は私達が作ったのかなあって」
「べ、別に・・・それは仕方ねえ事だしよ・・・そもそも、子は授かりものって言うだろ?」
「あら。ナマ言っちゃって。でも、蘭ちゃんってもてそうなのにも関わらず、いまだに男っ気無しだったから、ひょっとして希望があるかなあと思い始めたの。新ちゃんが成人する頃に、もし蘭ちゃんが独身だったら、きっと可能性がある、そう思い始めてた」
「・・・っとに。敵わねえな・・・」
「でも流石に、帝丹高校の教師になっていながら、新ちゃんも在学中、蘭ちゃんも在任中に、そのような関係になってるとは思わなかったわ。それに・・・蘭ちゃん、帝丹高校辞めたらしいけど、今どこに居るの?」
「や、それなんだけど、実は・・・」

新一は、蘭の書置きを見せ、そして、今までの経緯を詳しく、母親に語った。


「・・・え?ホント!?」


有希子は最初、少し難しい顔をしながら聞いていたが、新一が最後に自分の予測を付け加えると、途端に顔を輝かせた。

「ま、まあ。どうしましょう!新一。小五郎君に何言われても、頑張るのよ!必要なら私達も手を貸すからね!」
「か、母さん・・・とりあえず母さん達には、婚姻届の保護者の蘭に署名捺印して欲しいだけなんだけど・・・」
「あらあ。それは蘭ちゃんを見つけて、うんと言ってもらってからの話でしょ?まあそっちは新ちゃんにお任せするとして。もし小五郎君達がごねたら、その時は口添え位してあげても良いわよ?さっきの話を聞くまではそれも自力でやんなさいって思ってたけどお。んふふ〜、嬉しいわあ、子供が出来るのが遅かったのに、や〜んもう、こ〜んなに早く・・・」

有希子が身をくねらせて弾んだ声で言うもので、新一は辟易した。

「あ、だ、だから!やれるとこまで、自力でやってみっからよ。もしもの時には、助け呼ぶから」
「はいは〜い。頑張ってねえ」

新一は溜息をつきながら。
流石に傑物の母親だと感心もしていた。
何を聞いても動じず、とにかく新一の意思を尊重してくれる、太っ腹な母親なのであった。


家の事は母親がやってくれるので、とりあえず土日は蘭の居場所を探す調査に専念したが。
はかばかしい成果も上げられずに、少し消沈して帰宅した。


「おお、新一。お帰り」

何事もなかったかのようにそこに居る父の姿を見つけて、新一は更に脱力する。
別に会って嫌な訳ではないが、今更父に会いたがるような年でもない。
何より、新一はこの父を尊敬しつつ苦手としていた。
いまだに何一つこの父には敵わないという思いがあるからである。

「で?新一君、私に報告はしてくれないのかね?」
「・・・母さんから聞いてんじゃねえのか?」

新一がそう言うと、優作は目に見えて脱力して見せる。

「うう。新一君は私に冷たいなあ・・・」

いかにも泣き出さんばかりの父の様子に、新一は勘弁してくれよ、と思う。
父にも母ほどではないが芝居がかったところがある。
それこそ、新一などまだまだ足元にも及ばないこの男が、この位で本当にショックを受ける筈などないのだ。

それでも、親子の礼儀として、また、将来の事を考えるのなら、優作とはきちんと話をしなければならない。
新一にとっては、ある意味小五郎と話をする以上に苦手な相手であった。


「それにしても、知らなかったよ。君が、弁護士か検事か裁判官になろうと思っていたとはねえ」

父親がとぼけた顔で話を振って来た。

「ああ、いや・・・司法試験は通過点で・・・弁護士として数年活動したら、弁護士は辞めようかと・・・」
「ほほう。司法試験合格に執念を燃やし生涯をかけているものからすれば、お前のような態度は腰掛のようで、腹立つだろうねえ」
「母さんと同じ事言うんだな・・・」
「ま、そりゃそうだな。世間一般ではそう見られる可能性があるって事を示唆したんだからね。司法試験の史上最年少合格者という事で、君は注目を集めている。迂闊な発言はしないに越した事はない。ま、それに・・・ペリー・メイスンや朝吹里矢子の例もあるし、将来独立したあかつきには、工藤新一法律探偵事務所ってのも、面白いかも知れないよ?」

そう言ってウィンクして見せる父に、新一は「やっぱ敵わないな」と内心溜息を吐いたのであった。

「父さん。オレが、本当はまだまだ未熟だって事・・・わーってるよ・・・。でも。普通だったら焦らなくても良い事でも、オレは、急がなきゃなんねえんだ・・・」
「ほお?」
「年齢学歴を超えて、大学卒業と同等以上、一人前と認められる資格と言えば、司法試験。だからオレは、中学を卒業する頃にははっきりと、司法試験に目標を定めて、勉強し始めた。その時は、高校卒業までにはって積りでいたんだけど・・・急ぎたい事情が出来て、18歳の俺の誕生日には、司法修習生になろうと目標を切り替えた。だから全部、一発勝負になっちまったけどね」
「ふむ。・・・君は、高校に入ってすぐに、事件を解決させて高校生探偵としてデビューしてしまったから、両立は大変だったろうが、音を上げずに良くやり遂げた。探偵としての実績も、司法試験合格も、全て、君が君自身の実力と努力で勝ち取ったものだ。その点は、きちんと評価している。私は探偵デビューも君より遅いし、法曹資格を持たないから、君は今の時点で私以上に実績を上げているのだよ」
「・・・でも、父さんは単に司法試験を受けていないだけで、それ以上の実力は持ってるだろ?」
「そうかも知れないが、世間は結果しか見ない。単なる書類上の資格であっても、持つ意義は時に非常に大きい。ま、頑張ったな。もっとも、これから気が抜けないぞ?司法修習生としての勤めをきちんと果たし、最終試験に合格しなければならないのだから」
「ああ・・・わーってる・・・」
「で?本来だったらおそらく君は、探偵活動をしながら高校大学と進み、それからおもむろに職業としての探偵を選んだだろうと思うのだが。わざわざ、本来君にとって最終目標でない法曹資格を若くして取ろうとした、社会人として早くの独立を勝ち取ろうとした、その理由は?」

優作が真直ぐに、新一を見詰めてきた。
優作の組んだ手が口元を隠し、眼鏡越しであっても鋭い目の光がより強くなる。

優作には何もかもお見通しであろう事は分かっていた。
が、新一の口で、告げなければならない。

どの道、両親を近い内に呼ぶ積りではいたのだ。
もっともその前に、蘭の居所にあたりをつけたかったのであるが。

「蘭と、結婚したい」

新一は、ただ、それだけを言った。

「ほう。蘭君と、ねえ。で、肝心の相手の意向は?」

優作は動じず、軽くそう返してきた。

「2回プロポーズして、断られた」
「・・・それは。じゃあ、無理だろう?」
「いや。・・・蘭の方にも、オレと一緒になりたい気持ちはあるって、今は確信してる」
「ほお。しかし、断られたんだろう?」
「それは、多分・・・蘭がオレの立場を考えていたから・・・」

優作は眉を上げた。

「ふむ。成る程。それが自分に都合の良い考えではないという、根拠はあるかね?」

その後の新一の長い話を、優作は黙って聞いていた。
そして、大きく頷く。

「新一。分かった。蘭君の説得に成功さえすれば、婚姻届の署名捺印は、引き受けるよ。他にも、助力が必要な事は言ってくれ。私達は暫くこちらに居るからね」
「へ?」

優作があんまりあっさり言ってくれたもので、新一は拍子抜けする。

「暫くって・・・どの位だよ?」
「ふむ、まあ5月半ば位までかな?あんまりロスとここを往復するのは、こちらの体力にも懐にも響くから、出来ればその前に決着つけて欲しいもんだねえ」

新一は内心、優作と有希子にはその程度の事、大して響きもしない癖にと思ったが、それは流石に口にはしなかった。



   ☆☆☆



「新一君?日本警察救世主の君が、一介の主婦に、何の用事?」
「一介の主婦?鈴木家次期当主のあなたが?」

鈴木家客間にて、テーブルを挟んで向かい合っているのは、鈴木家次女の鈴木園子と、来訪者の工藤新一である。
アポ無しに新一の来訪を受けた園子は、とりあえず新一を客間に通させて姿を現したものの、すこぶる不機嫌に見えた。

「とりあえず今の時点では、子育て専念中のただの主婦よ。で・・・?」
「え?・・・園子さん、子供が居るんですか?」
「ええ。2年前に結婚して、1年前に子供が生まれたわ。それが何か?」
「園子さんの旦那さんは、あの時の方ですよね?10年前に園子さんの危機を助けた、空手選手の・・・」

それまで不機嫌そうな顔をしていた園子が、目を見開きその表情が緩む。

「あら。そう言えばあの旅行の時、まだガキんちょだった新一君がついて来てたわね。へええ?あの時の事、覚えてるの?」
「覚えていますよ・・・ナイフで園子さんに切りつけようとした男から、真さんが鮮やかに助け出した、あの時の事はね」

そう言って新一は目を伏せ、出されたコーヒーを一口飲んだ。
あの頃の自分は、蘭や蘭の親友の園子が危険な目に遭おうが、殆ど何も出来なかった。
もっとも今でも、流石に鈴木(旧姓京極)真ほどの戦闘能力を持ち合わせている訳ではない。
それでも、あの子供の頃には出来なかった、愛する女性を守り得る力はそれなりに手に入れた筈、だった。

なのに何故、今も蘭を泣かせてしまうのだろう。
自分の元から離してしまうのだろう。

「・・・茉里花、いらっしゃい」

園子の声に新一が顔を上げると、客間の入り口から、ようやく歩く事が出来るようになったばかりの赤ん坊が、顔を覗かせていた。
赤ん坊はとことこと危なっかしい足取りで、母親である園子の所までやって来て抱き上げられる。
赤ん坊に頬擦りする園子の表情に、新一は思わず見入っていた。

「真さんと私の子供。そうね。10年になるのか。真さんと出会ってから。あの時のガキんちょも、大きくなる筈だわ。でも、ガタイは大人になっても、まだまだ、ガキだけどね」

そうかも知れないと新一は思う。が、言葉には出さなかった。

「園子さん。すっかり母親の顔になりましたね」
「・・・何それ?ふけたとでも言いたいの?」
「いや。やっぱり母親にとって、子供って特別なんだなあって」
「そりゃあ、そうよ。茉里花は、私がお腹を痛めてこの世に産み出した、新しい命だもの。それに、真さんの命を受け継いでいるのだからね。愛しくない筈、ないじゃない」

そうか、と新一は思う。
母親にとって子供とは、愛する男性と自分自身との命を受け継いでこの世に新しく生まれ出た存在。
色々なリスクを超えて産む子供の父親が、誰であっても構わない筈などないのだ。


「で?新一君、ここにはまさか私の子供を見に来た訳じゃないでしょ?私に何の用なの?」

新一は、単刀直入に切り出した。

「園子さん。蘭の居所、知りませんか?」

園子は動じず、新一を真直ぐに見た。
その挑戦的な眼差しに、新一はある確信を得る。

「さあ。知らないわ。旅行にでも行ってるんじゃないの?」


新一は俯いた。
必死で堪えたが、肩が震えるのを止められない。
思わず「くくっ」と笑い声が漏れてしまう。

勿論、他の人を相手に、そのような失態を演じるような新一では有り得ない。
蘭の親友であり、新一も幼い頃から良く知っている園子相手だからこそ、素が出せるのだ。

「ななな!何がおかしいのよ!?」
「いや。・・・嘘が下手だね、園子姉ちゃん?」

新一はまだ笑いながら顔を上げてそう言った。
昔の呼び方をされて、園子は憮然とする。

「園子姉ちゃん。確か軽井沢に、鈴木家の別荘があったよね?」
「さあ?鈴木家の別荘も、1軒2軒じゃないからね。軽井沢にも、そりゃ、あったと思うわ」

園子が憮然としたまま答えた。

「OK。分かった、ありがとう」

新一がそう言って立ち上がる。
園子は去ろうとする新一を見上げると、真剣な目つきで言った。

「新一君。蘭を・・・蘭を、お願い。もう泣かせないで、幸せにして。絶対よ!」

新一は片手を上げてそれに答えると、踵を返し、立ち去った。



   ☆☆☆



そして、新一が毛利邸を尋ねたのは、4月の下旬に入って間もなくだった。
英理は自宅に居たが、探偵事務所の方で話をしようと新一を誘い、2人は2階の事務所に降りて行った。

蘭が行方不明になったと憔悴しながらぼんやりとテレビの競馬番組を見ていた(と言うより眺めていた)小五郎は、訳が分からないままに英理に引きずられるようにして、新一の向かい側のソファに英理と並んで腰掛けた。
英理が3人分のお茶を入れて、テーブルに置いた。

「お久し振りです、小父さん、小母さん」
「あんだあ?新一、オメー一体何しに来たんだ?オメー確か・・・」
「新一君。遅ればせながら、司法試験史上最年少合格、おめでとう。今は、1年半に渡る司法修習生としての研修生活が始まったばかりよね。その最終試験に合格しなければ、本当に終わった訳ではないから、油断は禁物よ。でもまあ、あなたなら大丈夫でしょう。頑張って」
「ありがとうございます。で、今日は・・・蘭のご両親としてのお二方に、お話があって参りました」

小五郎は、きょとんとし。英理は、表情を変えずにたたずんでいた。
新一は、緊張してテーブルの下で手を握り締めながらも、表情は露ほども変えないよう努めた。
最初に口を開いたのは、小五郎だった。

「蘭は、俺たちに黙って3月いっぱいで高校を辞め、アパートを引き払っていた。こっちには、短い手紙を寄越したきり、行方が知れねえ。『心配しないで』ったあ、ふざけた文章だ、心配しねえ訳ねえだろうが!!って、新一、まさかオメー、蘭の居所を知ってんのか!?」
「いえ。俺は、蘭が居るところは知りません。だけど・・・」

新一は、ある確信を持って、真直ぐに英理を見据えて言った。

「小母さん。蘭の居所、教えてくれませんか?」

英理もまた真っ直ぐに新一を見詰め返して、尋ね返す。

「私だって心配して一生懸命蘭の行方を追っているわ。なのに何故私が蘭の居所を知っていると思うの?」
「蘭が、余程でない限りご両親に心配かけるとは思えねえ。それに、いくら冷静沈着な小母さんでも、蘭が本当にあなたにさえ居所を知らせてないのなら、いくら何でも落ち着き過ぎだと思う。・・・そして小母さん、男は嘘を吐く時目を泳がせるけど、女は、特に覚悟を決めて嘘を吐く時、かえって真っ直ぐ相手の目を見詰めるものですよ」

英理は肩をすくめて息を吐き出した。

「まだ10代の癖に有能な探偵って、本当に可愛げがないのね。で?私が蘭の居所を本当は知ってたとして、それを新一くんに教えるとでも?」

英理の言葉を聞いて、小五郎が弾かれたようにソファから立ち上がった。

「なにぃ!?オメー、蘭の居場所を知ってるのか!?それならそうと・・・!」

激昂して言葉を紡ぐ小五郎を手で制して、英理は新一を見詰めたまま目線で答を促した。

「教えて下さい」

新一の言葉に、英理は厳しい眼差しを向ける。

「悪いけど、教えられないわ」

新一は一旦目を伏せ、そしてまた顔を上げると、言い放った。


「蘭のお腹には、子供が居るでしょう?その子の父親は、オレです」


英理はちょっと目を見張って新一を見詰め、小五郎はあまりの言葉に呆けた様に口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。

少し経って、最初に動いたのは小五郎だった。

「新一、貴様あ!」

既に覚悟を決めていた新一は、歯を食いしばって小五郎の一撃に耐えた。
少しよろけただけの新一を憎々しげに見て、更に殴りかかろうとするのを押し止めたのは、英理である。

「あなた。それまでよ。気持ちは分かるけど、蘭の立場、本当に分かってる?新一君はまだ17歳。しかも蘭は、新一君が通う高校の教師という立場だった。強姦とでも立証されない限り、淫行条例に引っ掛かって罪になるのは、蘭の方よ。もし新一君の両親がその気になれば、逆に蘭を訴える事だって出来るんですからね」

英理の冷静な言葉に、小五郎はいまだ怒りに震えながらも、とりあえず矛を収めた。
そして、どっかりと座り込む。

「話せ」
「は?」

小五郎の短い言葉に、新一は意味を図りかねて、間抜けな返答をしてしまう。

「経緯を話せってんだよ!」

ようやく、「話し合い」の場が出来る状況になった事を、新一は理解した。



   ☆☆☆



新一は、まず、自分がずっと抱えていた蘭への想いと、高校入学時点で思い描いていた未来設計について、簡単に説明した。
そして、いよいよ核心の、蘭が帝丹高校に赴任してきたところから、詳しく経過を話して行く。

「最初に蘭を抱いた時の事については、謝る積りはありません。あれは、蘭に取って必要な事でしたから」

新一は、真直ぐに小五郎と英理を見据えて、そう言った。

「蘭は・・・去年の春、学校の――帝丹高校の中で、集団レイプされかけたんです」

流石に小五郎と英理は息を呑んだ。
蘭がそういった標的にされ易い事は知っていたし、だからこそ用心深く対応させてもいたが、その甲斐あってか、ここ数年はそういう事もなかったから。
まさかほんの1年前に蘭がそのような目に遭っていたとは、気付きもしていなかったのだ。

「その夜、蘭は・・・今日の事を忘れさせて欲しいと、オレに・・・だからオレは、求めに応じて蘭を抱いた。オレはずっと蘭が好きだったから・・・ずっと、蘭に対してそういった欲望を抱いていた事を、否定はしない。でも、少なくとも、オレの欲望だけで蘭を汚すような真似は、絶対してないと、誓えます」

小五郎と英理は、やや青褪めながら、黙って聞いていた。

「蘭は・・・処女でした。オレは・・・蘭のその時の言葉を鵜呑みにして。蘭がただ、この先暴力で処女を奪われる可能性だけを恐れて、それ位ならと弟同然のオレに、処女をくれたもんだとばかり思っていました」

「それは蘭が・・・、新一君、あなたに、精神的負担をかけさせたくなかったからなのね?」

ようやく、英理が口を開いた。
横で小五郎が「けっ」と吐き捨てるように声を出した。

「ったく。あいつらしい気の回し方だぜ・・・」

新一が真直ぐ2人に目を向けたまま、更に語る。

「そうです。でもその時のオレは、蘭の本当の気持ちも、蘭の気遣いも、何も分かっていなかった。そしてオレも・・・きちんと自分の気持ちを、肝心の事を、何も伝えてなかった」

新一は目を閉じる。
初めての時の、蘭の表情・蘭の眼差し、そういったものを、今は欲望を全く抜きに、静かに思い返す事が出来た。
あの時、どうして分かってあげられなかったのだろう、どうして気付いてあげられなかったのだろう。
新一の瞼の裏の蘭は、泣きそうな顔をしている。

『オメーには、いつも、笑っていて欲しい。伝えるのは、そんな単純な事で良かったのにな・・・』

「蘭は、『好きな人とは絶対に恋人同士になれないから・・・』と言った。その時オレは、それがオレ自身の事だって気付かず、架空の存在に嫉妬していたんです。オレ達はそれからずっと、お互いの気持ちを隠したままで、体だけの関係を続けていました。オレは、そのままの関係を続けていれば、いつか蘭がその気になって、オレのプロポーズを受けてくれるんじゃないかって夢見てたし。蘭は蘭で、多分・・・いつか終わりが来るまで、刹那の関係で良いからって、覚悟してたんだって思う」

英理がふうと大きな息をついた。
小五郎はすっかり冷めてしまった茶を持ち上げ、一気に飲んだ。
彼にしては珍しく、煙草を手にしようとはしなかった。

「オレはずっと、避妊には気をつけていました。でも・・・蘭は多分・・・いつか終る関係なら、オレの子供が欲しいって、考えるようになったようです。そして蘭がそれを実行に移したのは・・・オレが2度目のプロポーズをした時です」
「2度目?」

英理が妙な顔をして訊いて来た。

「え、あっと・・・1度目のプロポーズは、初めて蘭を抱いた時で。高校卒業したら結婚して欲しいと言ったら、責任取ろうなんて思わないでと断られました。で、2度目のプロポーズは・・・その・・・司法試験の最終の口述試験が終わった後で。発表はまだだったけど、結構手応えあったから、つい、オレが18歳になったら結婚してくれって言っちまったんです」
「で?高校はどうするのとか、生活はどうするのとか、訊かれたんでしょう?」
「はい。お察しの通りです。で、オレもまだ合格発表があったわけじゃなかったから、流石に4月から司法修習生になると、はっきりは言えなくて。高校中退して働く、と」
「馬鹿ね。能力と将来性が嘱望されているような男に、自分の為にそんな真似させるような蘭じゃない事位、分かっていたでしょうに」

英理が溜息をついて言った。
新一は苦い思いを噛み締める。

「仰る通りです。面目ない」
「で?蘭に、ピル飲んでるって嘘つかれたんでしょ?」
「はい。・・・って、小母さんそれって・・・」
「蘭自身に打ち明けられたのよ。相手が誰かまでは、教えてくれなかったけど?」
「そうでしたか・・・で、オレは、最初は本当にその言葉を信じて、それ以降避妊しませんでした」
「いつ、その嘘に気付いたの?」
「・・・正月明けに、蘭が・・・こちらからオレの家に戻って来たときです。その時蘭は、月経中でした。ピルを飲んでいる女性は、生理周期が28日周期にきっちり定まるのが普通。なのにずれていたんで、おかしいなと思い・・・でもオレは・・・嘘に気付いていながら、気付かない振りをしていました。そして蘭の体に、妊婦特有の変化が現れ始めました」

「あ、ああ。もうそれ以上はいい!」

小五郎が咳払いして不機嫌そうに新一の話を遮った。

「オメーはやっぱガキだな。娘の生々しい話を、父親の前であんま赤裸々に語るもんじゃねえ!」

英理が溜息を吐いた。

「流石に探偵ね。これは皮肉でも何でもなくってよ。ただ、もうひとつだけ知りたい事があるわ。あなたは蘭の気持ちに、いつ、どうやって、気付いたの?」
「それは・・・蘭が妊娠したと分かった時です」

英理がちょっと目を見張る。
小五郎も、不思議そうに新一を見た。

「オレはずっと、考えていました。蘭は、好きな人を諦めて人生を送る為に、ただ、誰の子でも良いから、子供という存在が欲しかったのかと、考えた事もあります。でも・・・思い出したんです。蘭が昔、小母さんと話していた事を」

新一はそう言って、1度ぎゅっと手を握った。

「あれは・・・蘭が中学を卒業する前だから、15歳で、オレが5歳の時だったかな?まだ、小父さんと小母さんが別居中でした。蘭が小母さんに訊いたんですよ、『そこまでお父さんの事嫌いなら、何で私を産んだの?』って」


『そこまでお父さんの事嫌いなら、何で私を産んだの?』
『ら・・・蘭!』
『私は望まれないで生まれて来た子供なの?』
『何を言うの!?望まない子を産んだりする訳ないでしょう!?父親が誰であっても・・・』

そこまで言い掛けた英理は、フッと悲しそうに笑って、蘭の頬に手を沿え、言い換えた。

『ごめんなさい・・・蘭、お母さんはね。何のかんのつい、意地張ってしまうけど。いつかきっと、蘭にも分かるわ。お母さんはね、愛する人の子供だから、愛し合っていたから、あなたを産んだのよ。それは、間違いない事なの。今は、あの人と顔を合わせるとつい、いつも喧嘩になってしまうから、こうして離れて暮らしているけれど、決して、小五郎の事も蘭の事も、嫌いになった訳じゃないんだから。それだけは覚えていて。ごめんね・・・』
『お母さん・・・良かった。私、仕方なく産んで貰ったんだって、勘違いしてたよ』



「その時の蘭の、ホッとしたような顔を、オレは、決して忘れる事が出来ません。当時は、やり取りされている言葉の意味は、オレには半分も分かりませんでしたけどね」
「新一君・・・?あなた・・・あの時の事・・・たった5歳の時の事、覚えていた訳?」

英理は、流石に息を呑んだふうだった。

「全部とは言いませんがね。蘭に関わる大切な事は、覚えています。オレの1番古い記憶は、3歳の時、初めて蘭に出会った時の事ですから」

新一の言葉に、小五郎すらも目を見開く。

「で、思ったんです。あんなに、望まれないで生まれたかも知れないと脅えていた蘭が、ただ体を重ねるだけの愛情も何もない男の子供を望む筈がないんだって。ピルを飲んでいると嘘まで吐いて避妊を止めさせたからには、蘭のお腹の子の父親は、オレに間違いない。蘭が好きな男がオレだって分かってみると、蘭が何を考えて苦しんでいたかも想像がつく。オレは・・・早く蘭に追いつきたいって、いつもいつも足掻くばかりだったけど、やっぱりガキだったなあって、つくづく思い知らされました」

小五郎が、ふうと大きな溜息を吐き、首を横に振って言った。

「親の俺達ですら気付いてやれなかった事に、ずっと気付いていたってのか。・・・オメーには、負けたよ。認めるしか、ねえだろう。どの道、蘭がそこまでして子供を産もうとした男の存在を、認めねえ訳にはいかなかっただろうがよ」
「小父さん・・・」
「あのな、新一、言っとくが。俺がオメーを認めたくなかったのは、別にオメーが蘭より10歳も年下の小僧だからってんじゃねえ。こればかりは・・・オメーも娘を持ってみりゃ、いつか分かるだろうぜ」

新一は流石に、よく訳が分からないという顔をしてきょとんとし、英理が苦笑する。


「新一君、蘭を見つけたら、どうするの?」
「3度目の正直の、プロポーズを」
「そう。受けて貰える自信はある訳?」
「自信など、ありません。でもオレは、諦める積りも、全くありません」

新一は真直ぐに、英理と小五郎を見詰めて言った。

「で?新一君、ある程度、あたりはつけてるの?いくら何でも全く自力で調べもせずに、うちに来たんじゃないわよね?」
「え?ああ、まあ。候補位は絞っているんですが・・・流石に蘭の事になるとオレも全然推理に自信がなくて・・・」

新一は、蘭の行きそうな場所として絞った所をいくつか挙げた。
中で新一が、最有力候補としてあげた場所を聞き、英理の眼鏡が光る。

「何故、ここだと・・・?」

それは、軽井沢にある鈴木財閥所有の別荘であった。



   ☆☆☆



蘭が、軽井沢の鈴木家別荘の管理人となってから、早ひと月が過ぎた。
ゴールデンウィークになり、高原のこの町もそろそろ賑わって来る頃であるが、この別荘近辺は静かだ。
鈴木家の人々も、ゴールデンウィークに特にここを使う予定はないようだ。

蘭は、なまじの都会の一戸建てより大きい別荘の、部屋の空気を入れ替え掃除をし、庭の手入れをし、建物の傷みなどがないか点検して、日を過ごす。
重労働のようだけれど、蘭は家事には慣れているし、お腹の子供に障らないように自分でちゃんとコントロールしている。

鈴木家からは、多額ではないが給与を貰っている。
蘭の住まいは、別荘の離れのようにして立つ小さな建物だが、蘭と子供2人、当分は困らないだろう。

蘭は頑張って貯蓄もしており、それは少ない額ではなかったが、働かずに親子2人食べて行くなら、そう長く持ちはしない。
正直、園子の好意はありがたかった。
園子が提示した給与の額は、管理人として相応のもので、蘭が真面目に働く限り引け目を感じる必要もなく、その点もありがたかった。


蘭が訪れた当初はまだ寒さが残っていた高原も、ようやく春の優しさが訪れ始めていた。
鈴木家別荘の前には、少し大きな池があり、夏には涼風が吹きぬけるだろう。
今の季節は、様々な色取り取りの花が蘭の目を楽しませてくれる。


そして。
池の傍の小道を辿り、ちょっとした崖の上に出ると、そこからは遠くまで見渡せる。
そしてすぐ眼下には、教会が見えた。
昨年の夏、鰐口の妹が結婚式を挙げていた、あの教会である。


この、鈴木家所有の軽井沢の別荘には、園子と共に何度か訪れた事があった。
まだ幼かった新一と共に、来た事もある。

小さかった新一の手を引いて、散歩をして。
そして、この場所を見つけた。

去年の夏、別の道から教会の傍を通った時には、それがこの場所から見下ろせるところにあるあの教会だとは気付いていなかったが、後になって思い出したのである。



園子からの、鈴木家別荘管理人の話を受けたのは、他の理由も勿論あるが、新一との思い出の場所であるのも大きな理由のひとつだった。


「新一・・・」

幼い新一の姿と、今の新一の姿とが、二重写しになって蘭の眼裏に浮かぶ。


「私ったら・・・まだ、1ヶ月も経っていないのに・・・なんでこんなに弱いんだろう・・・?」

新一に会いたくて。
寂しくて。
涙が流れ落ちる。

覚悟を決めて居た筈なのに。
新一から離れて、まだ一月も経っていないのに。

この先もずっと、会えないと思うと、息が詰まりそうになる。

いつかは、この痛みにも慣れるのだろうか?
子供が生まれれば、忙しくなるのは必至だから、寂しさを感じる暇もないだろうか?


そしていつか。
父親を取り上げてしまった子供から、詰られ恨まれる日が来るのかも知れない。

『ごめんね・・・私・・・やっぱり間違ってるのかなあ?でも、あなたが物心つく頃には、きっとあなたのお父さんと・・・』

蘭はそっとお腹に手を当てて語りかける。
自分が傍にいると新一を駄目にしてしまうから、と、どれだけ自身を叱咤激励しても、幾重にもかけた心の鎧が崩れそうになってしまう。



『蘭』

新一が蘭を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

『馬鹿ね、新一がこんなところに居る筈ないのに・・・』

蘭は自嘲的に笑う。

幻の新一が、笑顔でこちらに手を差し伸べて来る。
蘭は思わず手を伸ばし、その手を掴もうとした。


「あ・・・っ!!」

足元が滑り、蘭は小さな崖を滑り落ちそうになった。
そこは、すぐ下に出っ張りがあるところで、たとえ落ちても精々1メートル位の高さ、普通であれば大した怪我もしない高さだが、咄嗟に考えたのは、やはり子供の事だった。

蘭は衝撃に備え、本能的に腹部を庇おうとする。
しかし、蘭の体は、地面よりもずっと柔らかいもので受け止められ、衝撃は殆どなかった。

そして蘭は、背後から優しく包み込むように抱き締められていた。

「ったく。寿命が縮むかと思ったぜ・・・」

耳の後ろから囁かれる、低く優しい声。
蘭は、まさかという思いに、身動きが出来ない。

「蘭と腹の子にもし何かあったら、オレ、マジで心臓止まっちまうぞ・・・」

蘭は恐る恐る体を浮かして振り返った。

「し・・・しん・・・いち・・・」
「ん?」

そこに、蘭は最愛の人の姿を認めたのだが、ほんの一瞬で、視界がぼやけ、何も見えなくなってしまう。
新一の姿が幻で、消えてしまうんじゃないかと、慌てて蘭は手を伸ばし、新一の頬に触れた。

「ど、どうして・・・ここに・・・?」
「どうしてって・・・蘭を迎えに来たに、決まってんだろ?」


蘭は、何か言おうとしたが、喉が詰まって言葉にならなかった。
頬を熱いものが後から後から流れ落ちて行くのを感じた。

「う、うう、・・・ふ・・・ひぃっく・・・」
「蘭?」
「うわあああああん、新一ぃっ・・・!!」

今迄、声を押し殺して涙を流した事は、数え切れないほどあった。
けれど、こんな風に声をあげて泣いたのは、どれだけぶりだろう?

蘭はいつの間にか新一にしがみ付いて、泣きじゃくっていた。

「しん、いち、しんいちぃ・・・ひっく・・・新一ぃ!」
「ああ。ごめんな、蘭。迎えが遅くなっちまってよ・・・」

新一は優しく蘭を抱き締めて、蘭の背中をあやすようにぽんぽんと叩く。
1度堰を切ってしまった蘭の感情の昂りは、もはや抑えが利かなかった。

新一は蘭が落ち着くまで、頭と背中を優しく撫でながら、抱き締めてくれていた。



   ☆☆☆



日差しで暖かかった高原も、流石に夕方になると、風が冷たい。
ぶるっと身を震わせた蘭に新一は自分の上着をかけて、横抱きに抱えあげた。

「新一・・・?」
「もう、建物に入った方が良い。夜風は、体に障る」

新一は蘭を抱き上げたまま、別荘への道を辿って行く。
細身に見える新一だが、蘭を軽々と抱き上げている新一の腕と胸板の逞しさを感じ取り、蘭は安らいだ気持ちで新一に身を預けた。


別荘に戻り、管理人用にあてがわれている部屋で、暖炉に火をともす。
2人は殆ど言葉を交わす事もなく、揺らめく火を見詰めながら寄り添って座っていた。

語りたい事も訊きたい事も、たくさんある筈なのに。
今はお互いの温もりを感じながら寄り添っているだけで、満ち足りた気持ちになっていた。

ややあって、ようやく蘭が口を開いた。

「新一。私・・・詮無い事だって解ってるけど・・・でも、新一と同級生で・・・せめてもっと近い年で・・・生まれたかったな・・・」

ずっと、蘭の内に凝っていた苦しみ。
新一も同じ事で苦しんでいたのかも知れないと思いながら、口に出さずには居られなかった。

「蘭。オレは、神の存在なんかは信じない性質だけど。この世界を統べる何者かが存在しているとするならば、そいつに感謝しているぜ。蘭と『たった10歳違い』で巡り会えた事」

新一の思いがけない言葉に、蘭は息を呑んで新一の方に目を向けた。
新一が優しい瞳で見詰め返してくる。

「だってよ・・・世の中には大勢の、何十億って人間が居て、でも、生まれた時期も場所も、みんなバラバラだろ?
オレと蘭だって、ひょっとしたら全然違う場所に生まれたかも知れない、下手すっと、蘭が生まれた頃オレは死にかけの爺さんだったり、その逆だったり・・・いや、そもそもすれ違っちまって、巡り会う事だって出来なかったかも知れねえ。
けど、オレと蘭は、こんなに近くの場所で、『たった』10歳違いで、生まれて巡り会った。結ばれるのが、結婚するのが、十分可能な年の差だぜ。
これって、奇跡に近くねえか?」
「しん・・・いち・・・?」

そんな風に、考えた事はなかった。
蘭は、どうして新一ともっと近い年で生まれなかったのだろうと、いつも思っていた。

「オレは、蘭に会えて良かった。この世で蘭という女性に、巡り会えて良かった」

蘭は新一の真摯な言葉に、本当に年の差なんて大した事ないのかも知れない、と思った。
新一は、いつの間にこんなに大人になっていたのだろう。

蘭の心の中に苦く固まっていたものが、ゆっくりと融かされて行く。

そうだ。
この世で新一に会えた事、心の底から愛せる男性と巡り会えた事。
そして、新一からも愛して貰えた事。
それ以上に幸せな事が、この世にあるのだろうか?
何故、こんな簡単な事が、今まで分からなかったのだろう?

蘭が突然くすくすと笑い出したので、新一は不機嫌そうな顔になった。

「んだよ・・・んな笑う事かよ。人が真剣に話してんのによ」
「ん、ごめんなさい。新一の言う事聞いてるとね、何か私、何てちっぽけな事で悩んでたんだろうって。そうね・・・本当に、新一に巡り会えて良かったって、私も思うよ・・・」


蘭の胸の迷いが、晴れて行く。
新一とだったら、たとえ何があっても一緒に乗り越えていけるに違いないと、蘭は確信を持ち始めていた。


「私・・・10年・・・ううん、もうすぐ11年になるわ。新一に恋をしてから・・・ずっとそんなに長い事、片思いだったのよ・・・」

蘭が、新一に自分の気持ちを打ち明けたのは、実はこれが初めてだったのだが。
もう新一には何もかも分かっているような気がしていた。

ところが新一には思いがけなくも、とても失礼な事に鼻で笑って返されてしまった。

「11年?ふっ・・・勝ったな。オレは蘭への片思い歴は、もうすぐ15年になるぜ」
「んもーっ、勝ち負けの問題なの!?・・・って、え!?15年!?」

流石に蘭は驚いて固まる。
新一の蘭への想いは、おそらく思春期頃に始まったものだろうと、何となく考えていたから。

「う、嘘でしょう?だってそれじゃ・・・」
「嘘なんか、言わねえ。オレの最初の記憶は、蘭との初対面から始まってる。セーラー服を着た蘭が、すっげー可愛かったの、ちゃーんと覚えてるぜ?」
「・・・新一・・・!」
「あの頃のオレは、本能的に。オレに近付く人間の欺瞞に気付いてた。父さんや母さんに媚びへつらう人間が、オレにも甘い声をかけようとしたり。でなければ、子供という存在を見下していたり。
蘭と初めて会った時、とても綺麗で可愛い人だって感じたのも事実だけど、それ以上に。他の誰とも違う、欲得や偏見など全く抜きに、見下しもせず持ち上げもせず、全く対等に真直ぐにオレに向かい合ってくれた、それが、蘭だった。
それから、ずっと。蘭だけを、愛してた。蘭だけが、オレにとって『女性』だったんだよ」

蘭は驚き・・・そして、新一との初めての出会いを思い返していた。
確かに蘭に取って新一は、今現在3歳児である男の子、ただそれだけの存在であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
可愛い子として愛しく思う気持ちは湧き上がったものの、相手が子供と侮り自分の良いように出来る格下の存在という認識などはなかった。
それは、新一でなくても他の全ての子供に対して、共通するものであったのだが。

逆に言えば新一は、まだたった3歳なのに、新一をあるがままに受け止め愛してくれる存在に、本能的に飢えていた、孤独を感じていたという事で。
それは、新一が長じてその能力を遺憾なく発揮し始めてから余計に感じるようになったものであろうと、蘭は思った。

新一のその孤独を思うと、蘭は胸が詰まった。
そして、蘭がそれを癒す存在であったのだと思うと、くすぐったく嬉しかった。


「ねえ、新一。もしかして、ひょっとして。新一って、私がついてなきゃ、駄目?」

新一の顔が、見る間に真っ赤に染まる。
今迄真直ぐ蘭を見詰めていた新一が、拗ねた表情になってふいと顔を背けた。

「んな事!気付いたって、はっきり口に出して言う事ねえだろうが!」

蘭はふふっと笑って、向こうを向いた新一の背中に抱きついた。

「ごめん。でも新一?私もよ。私も、新一が居てくれなきゃ、駄目なんだもん」

新一は何も言わず、向こうを向いたままだったが。
蘭が新一の二の腕に縋りついた手の上に、優しく手を重ねて来た。

年の差など関係なく、背伸びをして強がっていたのはお互いで。
好きなのに、悲しいほどに好きなのに、相手しか見えていないのに、いや、だからこそ。
相手を失う事が何よりも怖くて、臆病になっていたのだった。


新一が、くるりと向きを変え、蘭の両手を握って、真剣な眼差しで言った。

「蘭。オレと結婚してくれ。オレの嫁さんになってくれ」
「・・・新一・・・」

蘭が即答出来ずに口篭っていると、新一が畳みかけるように言葉を継いで来た。

「イエス以外の答は聞きたくない、いや、聞かない」
「え?そんなのって・・・ずるいじゃない」
「ずるくても、何でも。もしこの期に及んでノーと言うんなら、それは工藤新一という男を殺す覚悟で、言うんだな」
「え?こ、殺すって・・・」
「蘭が居なきゃ、オレは生きていけない。だから、蘭に断られたら、もうオレは・・・」
「ななな、何大げさな事言ってんのよ!?そんな脅しみたいなプロポーズってあり!?第一、自殺なんか絶対駄目だよ!」
「オレは、自殺なんかする気はねえよ。ただ、蘭が傍に居なけりゃ生きる気力がなくなって、きっとその内・・・」
「もう、馬鹿な事言わないで!」

思わず新一の手を振り払おうとしてしまった蘭は、新一の目を見てハッとなる。
いつもいつも鋭く強い光を宿した新一の瞳が、今は弱々しげに揺れているのであった。

新一が蘭を強く抱き締めた。
その体が震えているのに気付いて、蘭は新一を抱き締め返す。

「蘭。オレは・・・。司法試験に挑戦して合格したのも、蘭が居たからで。蘭と一緒になる為に、社会的に早く自立出来る方法として、選んだだけで。蘭が居なけりゃ、あんなの・・・法曹資格なんて、オレに取っては、何の意味もねーんだよ・・・!」
「新一・・・!」

新一が史上最年少司法試験合格者になった原動力が蘭だったと知り、流石に蘭は息を呑んだ。

「蘭。愛してる、愛してる。オレはオメーが居なきゃ、駄目なんだ。オレの傍に居てくれ。オレから離れないでくれ。頼む」

蘭は、愛しい気持ちでいっぱいになって、新一の背中をそっと撫でた。

「うん。居るよ。新一の傍に居るよ。ずっと・・・」

新一の肩が、ピクリと震えた。
新一はゆっくりと蘭の肩に手を当て体を離すと、真直ぐに蘭を見詰めてきた。
蘭が本気なのかと、窺っている様な表情に、蘭は一瞬胸が痛くなった。

「新一。私を、新一のお嫁さんにして」
「蘭」
「私を新一の傍に置いて。ずっと、離さないで・・・」
「蘭・・・!」
「愛してる」

次の瞬間、蘭は新一に抱きすくめられ、唇を奪われていた。

お互いの唇を何度も求め、お互いに名を呼び合う。
新一と蘭、お互いの気持ちがようやく通じ合った瞬間だった。



   ☆☆☆



蘭が園子に連絡を取り、たった1ヶ月で悪いが管理人を辞する旨伝えると。
園子は、さして驚いた様子もなく、言った。

『まあ、仕方ないわねえ。でも、蘭、帰るのちょっとだけ、待っててくれない?5日の子供の日に、そっちを引き上げて来て欲しいの』
「5日?うん、まあ、良いけど。こっちも勝手ばかり言ったんだし」
『で、新一君、居るんでしょ?ちょっと代ってくれる?』

蘭は赤面しつつ、新一に電話を渡した。

「園子さん?オレに何か?」
『すぐに蘭を連れ帰りたいだろうけど、ちょっとだけ待ってて欲しいの。本当は新一君にもずっとそこに居て良いよ、と言いたいところだけど、司法修習生の研修をおいそれと休む訳には行かないだろうし。だから明日は一旦帰って、また3日の日にその別荘に来て貰える?』
「分かりました。って、オレもここに泊まっても構わないって解釈しても良いのかな?」
『寝室を別に、な〜んて野暮は言わないけど?身重の蘭に無理はさせないのよ。じゃあねえ』

新一は、蘭に電話を戻しながら。
思わず手を顔に当て、うな垂れてしまった。

「新一?どうしたの?」
「いや・・・信頼されてんのか、それとも、見透かされてんのか・・・って、ちょっと考えちまって・・・」


ともあれ、新一の休日は明日までで。
この別荘から研修所に通うには無理があるから、明日は一旦、家に帰らなければならない。



その夜、2人は様々な事を語り合った。
今迄の事、これからの事、生まれて来る子供の事、お互いの両親の事。

新一が小五郎に殴られた点については、蘭は身を縮めて申し訳ないといった顔をした。


ともあれ、お互いの両親の許しも得ており、これからの生活に希望を持つ事が出来た。

その夜、2人は久し振りに体を重ねた。
新一の行為に以前のような激しさはなく、新一は優しく慈しむように蘭を抱いた。

蘭の体と小さな命を気遣っての事かと蘭は思ったが、新一に問うと、新一は小さく笑って答えた。

「勿論それも、あるけどさ。それだけじゃねえ。今は、蘭が、身も心もオレだけのもんだって、安心してっからな」

蘭の心がそこにないと思っていたからこそ、憑かれたように蘭の体を求めていたのだと、新一は言う。
新一の激しさを、飽く事無く何度も蘭を求める欲望を、若さ故の性欲の強さだとばかり思い込んでいた蘭は、申し訳なさにいささか赤面せざるを得なかったのである。


「ここに、オレ達の子供が、居るんだな・・・」

新一は愛しむように蘭の腹部を撫でる。

「新一・・・ごめんね、嘘ついて勝手に・・・」
「良いんだよ。ってか、蘭がこの子を妊娠した頃って、オレも蘭の嘘には気付いてたんだしよ」
「新一・・・何で黙って、騙された振りしてたの?」
「オレ、ちょっとばかりずるい事、考えてた。子供への父親の権利を楯に、蘭を掴まえちまおうって」
「新一、でもそれって・・・」
「子供を道具にするなんて、ずるい考えだよな。気付いた時は、すっげー自己嫌悪だった」
「・・・しんいち・・・」
「でも、蘭がオレの子を産もうと考えてくれた事も、子供が出来た事も。どっちもすげー嬉しかったのは、本当だぜ」

新一が体を起こし、蘭を優しく見詰め、そして唇を重ねて来た。


そして2人は寄り添って、お互いの温もりに安心しながら、眠りに就いた。



朝までは後いくらもない。
目覚めれば、新しい日々が待っている。




あなたしか見えない・完



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<後書き>

「あなたに巡り会えて、良かった」

この言葉を書きたくて、始めたこの話。
そこに至るまでが苦しくて仕方がありませんでしたが、ようやく、完結しました。

連載間隔がかなりあいてしまったのに、それでも読み続けて下さった皆様に、心から感謝を捧げます。
そして今更ですが、名探偵コナンという作品と、工藤新一・毛利蘭という素晴らしいキャラクターを産み出して下さった青山剛昌さんにも、心からの感謝とエールを。
本当にありがとうございました。


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