愛人(!!!?)生活



byドミ



(3)蘭の入社



蘭は、月曜から金曜日までのほぼ毎日を、新一が逗留しているホテルに泊まって過ごした。
新一に仕事がない土曜の昼間や、たまに普段でも時間が取れたときなどに、映画を見たり食事に出掛けたりといったデートらしい時間を過ごすが、仕事が忙しい新一には、時間を作る事もままならないようだった。
そして新一は、土曜の夜から月曜の朝に掛けては必ず家の方に戻り、蘭は新一と週末を一緒に過ごす事が出来なかった。



それらを埋め合わせるかのように、新一は溺れるように毎晩何回も蘭を抱いた。
月曜日の晩は会えなかった間を埋めるように殊更に執拗に蘭を抱き続けた。
夫婦同然の・・・いや、並みの夫婦では及びもつかない様な性生活に、蘭はすっかり慣らされてしまい、新一に抱かれる歓びを覚え込まされていた。
蘭は決してその行為自体が好きな訳ではなかったのだが、新一に抱かれていると新一を身近に感じられるような気がして酷く安心出来たのである。
新一が蘭を抱く回数は明らかに尋常でない頻度であったのだが、経験皆無の蘭にはそんな事はわかっておらず、ただ漠然と週末一緒に過ごせない事への不安がつのって行ったのである。







蘭の大学卒業式の夜。

蘭はこれからそれぞれ別の方面に旅立って行く級友達と、カラオケボックスを借り切ってパーティを開き別れを惜しんでいた。
歌う事が目的なのではなく、下手に居酒屋などで過ごすのに比べ騒ぐのに気兼ねも要らず安上がりだったからである。


「友香、田舎に帰っちゃうんだ・・・」
「就職先ないし。親の決めた相手と結婚でもするよ」
「え?じゃあ、松本くんどうなるの?」
「どうなるって、あいつとはアパート代浮かす為、大学生の間だけの契約同棲だもん。でも家事全部私に押し付けてたのよ、信じられる?」

同棲していた級友の思い掛けない顛末に、蘭は言葉をなくす。
そもそも家事のシェアが云々以前に、家賃の為の契約同棲という発想が蘭には理解の外だった。

かと思うと、「男に捨てられた」と号泣している者もいる。

「雅美、一体どうしたの?」

蘭の疑問に答えるのは、親友の園子である。

「ん〜、雅美は真剣に将来考えてたらしいんだけどね・・・田川くんに取っては、ていの良いおさんどん兼欲望処理の相手だったらしいの。就職先が静岡県ってだけで、サヨナラだってよ。遠距離の内には入んないじゃん。それにね、大きな声では言えないけど、ちゃんと向こうには結婚相手も居るんだってさ」
「おさんどん兼欲望処理?」
「家に帰ったら御飯出来てて、掃除洗濯に煩わされずに済んで。そしてタダでやれるでしょ、一緒に住んでるからホテル代だって掛からないし」

園子の身も蓋も無い言い方に蘭は頬を赤らめながら返した。

「田川くんって、そんな理由で同棲してたの?」
「時代が変わったって言っても、やっぱ女の方がリスクは大きいよ。結婚相手と『便利な女』とを使い分けてるずるい男って世の中にはたくさん居るの。あ、でも、真さんは誠実だけどね」

園子は幸せそうにニマッと笑って言った。
その左手の薬指にはキラリと指輪が輝いている。


園子は親の反対も乗り越え、卒業を機に(お互いの家族間だけでの約束でお披露目はまだだが)、恋人である京極真と正式に婚約をしたのであった。
園子が高校2年生の時に真と初めて出会ってから、既に5年半の歳月が流れている。
その間2人は着実に交際を深め、京極真が空手修行の為外国に留学して遠距離恋愛になっても2人の絆は途切れる事がなかった。
また、今時にしては珍しく、2人が深い仲になったのは交際を始めてから3年後、園子が20歳の誕生日を迎えた夜のことであった。
園子が「たとえ親が反対しても結婚出来る」年になって初めて、真は園子と一線を越えたのである。
その真心が通じない筈がなく、園子の両親もとうとう折れたのだ。

「誠実な男性と不実な男性・・・どこでどう見分けられるのかしら?」
「う〜ん・・・たとえ誠実な人でも、心変わりとか魔がさすとかってないとは言えないしねえ。ところで蘭、私に隠してる事あるでしょ?そろそろ吐いてしまいなさいよ」
「え?ええ?」
「男性が誠実かどうか気になるって事は、蘭にもそんな相手が出来たって事よね。変だと思ったのよ、最近すごく綺麗になったし、付き合い悪くなったしね。でも、大親友の園子様にも隠してるなんて、悲しいなあ」
「ごめん、園子。隠す積りじゃ・・・でも、何だか言い辛くて」
「まあ、蘭らしいけどね。・・・ねえ、もうロストバージンしちゃったの?」
「う・・・うん」

蘭は耳や首筋まで真っ赤にしながら頷いた。

「やっぱりね。それにその様子だと、無理矢理犯られた、って訳じゃなさそうね。肩を抱かれるのさえ嫌がってた男性恐怖症の蘭が」
「もう、言わないでよ!それに、男性恐怖症って訳じゃなかったみたい。ただ、今迄好きになった人が居なかっただけみたいなの」
「え?じゃ、ひょっとして・・・初恋?」

蘭はコクリと頷いた。
園子は難しい顔をして考え込む。

「う〜ん。そっか・・・男性に免疫がない蘭の事だからねぇ。蘭はこうなったら一途だろうし。相手の男が良い人なら良いけど。・・・ね、どんな人?」
「あのね・・・ナイトバロン社の面接の時に会った人なの・・・」
「じゃあ人事部長か何か?すごく年上の人なの?」
「ううん。アメリカでスキップして18歳で大学卒業したって事だから、入社して6年経つけどまだ24歳よ」
「へえ、エリートじゃん。でも、入社予定の新人に手を出すとしたら・・・結構真剣なのかもね。蘭のような上等の女がそうそう転がってるとは思えないし、他の男に取られる前にお手付きしたのかも。で、その人の名前は?」
「あ、くど・・・」

蘭が新一の名を告げようとした丁度その時、派手にガラスが割れる音と泣き喚く声が響いた。

「きゃああ、雅美!」
「もうほっといてよお、死んでやる、たっくんの新居の前で手首切って自殺してやるんだからあ!」
「何馬鹿な事言ってんの!あんな下らない奴の為に死のうなんて馬鹿げた事は止めなさいっ!」

酔っ払って荒れた雅美が暴れ出したのを、級友数人で取り押さえた。
周囲の女学生たちには、真剣に心配する者、おろおろする者。そして眉を顰める者がいた。



  ☆☆☆



特に仲が良かった2人が雅美をタクシーに乗って送り届け、残った者はフロントに行って(いくつかの備品を壊してしまった事と掃除が必要なことで)謝り、その場は自然に解散となった。

「ねえ、蘭。送って行くよ。電車、もうないんじゃない?」

園子が蘭に声を掛ける。
園子には、家から運転手付きの車が迎えに来ているのだ。

「あ、ううん、大丈夫よ。すぐそこだから・・・」

このところ蘭がいつも泊まっているホテルは、ここから歩いてそう遠くない所にあった。

「ははーん。成る程。彼と約束がある訳ね」
「そ、そんなんじゃ・・・」

そんなんじゃない、とも言い切れなくて、蘭は語尾を濁した。

「良いって良いって。野暮は言わないわ。蘭、今度私に紹介してね。それじゃまた」

園子を乗せた車が去っていくのを見送って、蘭は小さく溜息を吐いた後歩き出した。
雅美の事、友香の事、そして新一との事・・・色々と考えてしまう。

「お姉さん、1人?だったら俺とお茶飲みに行かない?」

蘭が1人で歩いていると、通りすがりに何人もの男から声を掛けられた。
しつこい者も何人かいる。
蘭は全て無視して歩いていたが、男の1人から手を掴まれた時、心底ゾッとした。

「離して!やだっ、新一っ!」

蘭が思わず空手技を出しそうになった時、何かが飛んで来て男の顔面にヒットした。

「新一・・・?」
「蘭、こんな時間に何1人で歩いてんだっ!!」
「え?だ、だって・・・」

駆け寄って来た新一が蘭の肩を抱き寄せ、敵意に満ちた目で周囲を見回す。
その迫力に、近くを通りかかっていた男たちは蜘蛛の子を散らすように去って行った。

新一が蘭を引き摺るようにして歩き始める。

「新一。何故ここに?」
「あそこのカラオケボックスで卒業記念パーティやるって言ってただろ?」

新一の横顔が怒っているように見え、蘭は悲しくなる。

「ねえ、新一。何を怒ってるの?」
「え・・・?」

新一は立ち止まり、振り返って蘭の顔を見た。
蘭が泣きそうな顔をしていたのだろう、新一は困ったような顔をして言った。

「ごめん。オメーに対して怒ってるわけじゃねーんだ。だから、泣くなよ」
「だ、だって・・・」
「その・・・オメーの容姿は男心をそそるし・・・それに、オメーってよく今迄無事だったなと思う位に無防備だから・・・」

新一は言葉を濁し、最後の方は聞き取れなかった。
しかし、やっと蘭にも何となく、新一が蘭の事を心配して迎えに来たのらしいと分かった。



  ☆☆☆



「あ、はっ・・・やあああっ、しん・・・いちっ・・・」
「蘭、蘭。・・・っくっ・・・オメーは俺のもんだよ・・・誰にも・・・渡さねぇ・・・」

今日の新一は一段と激しく蘭を求めた。
新一は決して乱暴な事や無理強いはしない。
けれど、新一の愛撫に、求めに、蘭が抵抗出来たためしはなかった。
蘭は、新一が欲望だけで蘭を求めていると思いたくはないのだが、拒絶したが最後新一が蘭から離れて行きそうで怖かった。
新一の独占欲が、ただ一旦手に入れた女を取られたくないだけなのか、愛情から来るものか、今の蘭には判らなかったのだ。

「あああっ、はあああああんん」

蘭が上り詰めるのと同時に、新一が蘭の中で果てた。


新一が蘭の中から自身を引き抜くと、蘭の中から2人の体液が混じり合ったものがドロリと零れ出た。

「あ・・・」

新一は時々うっかりなのか故意なのか、こうやって避妊せずに蘭の中に自分の熱をぶちまける事がある。
初めての時は多分、その用意もなかった為だと思われるが。
初めて結ばれて間もない頃、新一は蘭に言った事がある。

『もしもの時は・・・俺の子を産んでくれるか?』

その微妙な言い回し。
新一は決して「もしもの時は責任を取る」とも「もしもの時は嫁さんになってくれ」とも言わなかった。

『認知はしてくれるつもりなのかな?でも・・・結婚相手は別って考えてる?』

蘭は新一が何を考えているのか解らず、時々「やはり自分は新一に取って便利な女なのかも知れない」と思って不安になるのだった。







次の日、蘭は新一に連れられて、ナイトバロン東京本社から歩いて数分の所にあるマンションに来ていた。

「いつまでもホテル暮らしというのも何だし・・・ここを借りる事にしたんだ」

新一が心なしか顔を少し赤く染めて言った。
案内されて足を踏み入れてみると、既に家具調度は運び込まれ、すぐにでも生活出来るようになっている。
2人暮しでも充分過ぎるほどのスペースがある、ファミリータイプのかなり贅沢といえる作りのマンションだった。

「あ、あの・・・新一・・・?」
「ここに引っ越して来いよ。アパートを引き払ってさ」
「ええ!?そ、そんな事、無理よ!」
「何で!?」
「だ、だって・・・お父さん達になんて言ったら良いの?時々遊びに来る事だってあるのに」
「ああ、その事か・・・」

新一はリビングの奥にある扉を開けた。
そこだけ家具も何もまだ入っていない、独立した1Kになっていた。

「新一、ここは・・・?」
「ここ、元々は年寄り世帯が一緒に住む為の2世帯住宅なんだよ。独立した玄関もあるし、リビングに通じるドアを目隠ししてしまえば、知らない人には只の1Kのマンションにしか見えない。ここに蘭の荷物を入れて、ご両親や友人が遊びに来た時は、こっちの部屋に通すようにしたら良い」

蘭は複雑な気持ちでその部屋を眺め回した。
確かにここなら誤魔化しが効いて、両親にも余計な心配を掛けずに済むかも知れない。

しかし・・・。

『新一は・・・無理ないけど、私の両親にも他の人達にも2人の関係を公にする積りはないんだわ・・・』

新一が、2人で暮らす為のマンションを用意しながら、どうやら周囲の人間に2人の仲を隠しておきたいらしい事に、蘭は心を痛めていた。

卒業記念パーティの時荒れていた雅美の事が脳裏に浮かぶ。
やはり自分は新一に取って都合の良い女なのかも知れないという疑いが頭をもたげる。
それでも、蘭は新一のその申し出を断る事など出来なかった。

「でも新一。たとえ1Kでも、場所柄家賃は高そうよ。それに今までの安アパートに比べたら、格段に作りが立派だし。やっぱり新卒の女が借りるには、分不相応だって気がする」

蘭の言葉に、新一は心得ていると言わんばかりの顔で言った。

「ああ、それなら、社員寮いう事で。事実、うちの社の秘書たちは皆、時間外勤務が多い代わりに、会社の近くに似たような規模の1Kかワンルームのマンションを、寮として借り上げて支給されているからね」
「え?ひ、秘書!?」
「ああ。蘭は社長秘書室に配属が決まっているんだ。あ、心配しなくても、あそこは複数配置されているから、いきなり秘書としてひとり立ちさせられる事はねえよ。大丈夫、蘭だったらすぐに仕事を覚えられるから」







新一の強引なやり口に蘭は逆らう事も出来ず、マンションでの新しい生活が始まる事になった。
蘭は両親に引越しの事を告げ、小五郎と英理は連れ立って蘭の新しいマンションにやって来た。

「へえ・・・ナイトバロン社って本当に景気が良いのねえ。こんな良い部屋を社員に借りるなんて」
「うん、でもその代わり、結構終業が遅くなる事があるって言われたわ。社長のパートナーとして交代でパーティに出席したりとか、色々あるそうよ。代わりの休みはあるけど、夜道を歩かなくて良いようにという配慮だって」
「そう。まあ何にしても、働くというのは大変な事よ。とにかく全力でやってみる事ね」
「うん、頑張るわ」
「だが蘭、無理はするなよ。いつでも帰って来て構わないんだぞ」
「あなた・・・。今から社会人になる娘に余計な事は言わないのよ!」
「だがなあ。体を壊したら元も子もねえぞ」
「蘭はあなたが思っているようなひ弱な娘ではないわ。あなたと私の子よ、信じてあげて」

母親・英理の言葉に、蘭は何となく後ろめたいような気がして目を伏せた。
もしかしたら母親の勘で、英理は蘭が既に女となっているのを感付いているのかも知れない。
ただ、蘭が選んだ道を、相手を、信じようとしてくれているのだろう。
その母親の気持ちにもしかしたらそむいているのかも知れないと蘭は思う。

けれど蘭にも、もう自分を止める術はないのだった。







4月1日、入社式が行われた。

蘭は新一の言葉通り、社長秘書室に配属された。

「毛利蘭です、宜しくお願いします」

秘書室に居る先輩――天野聡美、岩倉光枝、内田唯の3人は、誰1人返事もせずに値踏みするような眼でジロジロと蘭を見た。
年は20代半ば位と思われる、いずれ劣らぬ綺麗な女性ばかりである。
秘書としての条件を満たした才色兼備の者ばかりなのだろう。
3人が何故敵意の篭った様な眼差しで蘭を見るのか、蘭には理解出来なかった。

『私なんかでは役者不足って思われてるのかな?』

入社早々、秘書室での新一を巡る陰湿な女の争いに巻き込まれるとは、蘭は夢にも思っていなかったのだ。



  ☆☆☆



「工藤社長」

会議が終了した後の会議室で、皆がぞろぞろと出て行った後残っている新一の元へ、中年の男性がやって来て小声で耳打ちした。

「山田人事部長、何か?」
「あの子・・・大丈夫でしょうかね?最近あそこに配属になった新人は皆続いてないのですが」
「ああ・・・まあ見ててくれ、俺の代になって今やわが社の癌と化してしまった社長秘書室にメスを入れて見せるから」

新一が自信たっぷりに言い、山田人事部長は不安な面持ちながらも、それ以上は何も言えなかった。



  ☆☆☆



蘭は入社1日目から、先輩秘書たちから散々お小言を言われ続ける日々が始まった。

蘭を一目見るなり、1番先輩格の天野聡美が言った。

「毛利さん。あなたねえ・・・もうちょっと常識をわきまえなさいよ」
「はい?何の事でしょうか?」
「その髪!長く垂らしたままなんて・・・!肩以上の長さだったらきちんと纏めるのが当たり前でしょう!?」
「はい、申し訳ありません。この秘書室ではそれが決まりなんですね?明日から纏めるようにします。他に何か、不文律になっている規則はありませんか?教えて下さい!」


書類の書き方が解らずに、蘭が岩倉光枝に相談する。

「あの、これはどう処理するんですか?」
「はあ?いちいち訊かないでよ、マニュアルあるでしょ?アンタ、そんな事もわかんないの?」
「申し訳ありません、マニュアル読んでも私には解らないんです、お手数掛けますけど教えて下さい」


蘭が先輩達に言い付けられてお茶を淹れると、すぐに内田唯の罵声が飛んだ。

「ねえ、お茶がぬるいわよ!一体どんな淹れ方したの!?お茶ひとつ満足に淹れられないなんて!」
「申し訳ありません。高級煎茶だったので、本で見た通りに、急須と湯飲みを温めて、80度のお湯で淹れてみたのですけれど、どこか間違っていたのでしょうか?」
「え・・・あ、ああ、今度から冷めない様に、出す直前に淹れて頂戴!」
「ハイ、分かりました、申し訳ありません、教えて頂いてありがとうございます!」







蘭の入社から数日が経ったある日の事。

蘭が昼食を摂りに行っている間に、先輩秘書3人は密談をしていた。

「ねえ、あの子、思ったより手強いじゃない?弱そうに見えて意外に強情だし」
「そうね、すぐに泣き出すかと思ったのに、いつもニコニコして。嫌味言っても鈍くて通じないみたいだし」
「今のやり方じゃ手ぬるいって事よね。責め方を変えるか・・・」
「ねえねえ、明日の午後・・・」
「そうか、それあの女に知らせてなければ・・・」
「ふふふ、失礼な態度を取って怒られると良いんだわ」



ちなみに、この3人は決して仲が良い訳ではない。
新人が配属された時のみ、結束が固くなるのである。
蘭を陥れるのに夢中になっていた3人は知らなかった。

彼女らの狙う若き社長・工藤新一が、社員食堂で自作の弁当を食べている蘭と全く同じ内容の弁当を社長室で広げ、にやけているという事実を。







「社長は居るかしら?」

社長室の前の受付に突然現れた美女が言った。
年は30を少し過ぎた位だろうか、明るい色の髪に特徴のあるウェーブをつけた、素晴らしいスタイルの女性だった。
蘭は丁度その時、受付に初めて座らされており、その女性と対峙した。

「はい。あの、アポイントはお取りでしょうか?」

蘭はにっこりと笑って言った。

「アポ?私にはそんなもの必要ないのよ。とにかく取り次いで」
「あの・・・失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「あら、あなた・・・私の事知らないの?」

挑戦的に言うその美女は、確かに良く見知った顔だと蘭は記憶の底を探った。
思い当たって息を呑む。

「藤峰有希子様・・・!」
「あら・・・若いのに昔の私を知っているの?」

若々しく30を少し過ぎた位にしか見えないこの美女は、実は4半世紀前に現役を引退した伝説の大女優で、もう40代も半ばになる筈なのである。

「私が尊敬する伝説の大女優ですもの、大ファンなんです!・・・あっ、す、すみません!無作法を致しました。あの、私、今度秘書として配属されたばかりの毛利蘭と申します」
「そう。宜しくね。ところで、社長に取り次いで貰える?」
「あ、あの・・・真に失礼ですが、アポイントはお取りですか?」
「だから私にはそんなもの必要ないと言っているでしょう?」
「で、ですが・・・お約束のない方はお取次ぎ致しかねます」

蘭は毅然とした態度で言った。
たとえ相手が誰であろうとも、社長命令でもない限りは決して動かない積りである。

「副会長。新人の秘書を苛めるのはその辺にして貰えませんかね」

蘭の背後から心地良いテノールの声が響いた。

「あら・・・社長、私、苛める積りはなかったのよ。決まりはきちんと守ろうとする毅然としたこの態度・・・ふふ、私はとても気に入ったわ」

蘭は目を丸くして新一と藤峰有希子のやり取りを見ていた。

「毛利くん、この人は旧姓藤峰、現在の名は工藤有希子、ナイトバロン社のオーナー夫人で副会長。幸か不幸か、俺の・・・母親だ」

蘭は慌てて頭を下げる。

「そ、それは・・・知らぬ事とは言え、大変失礼致しました!」
「良いのよ、入社して間もない新人が、紹介も受けていない役員の顔を知らなくても当たり前。あなたの仕事振りは評価に値すると思うわ」
「あ、毛利くん。申し訳ないが、社長室にお茶を運んでくれないか?コーヒーをひとつと紅茶をふたつ」
「かしこまりました」

蘭は「何故紅茶がふたつなんだろう」と訝しく思いながらも、給湯室へと消えて行った。



  ☆☆☆



有希子と新一は社長室に入り、向かい合わせに座った。

「でも、新人の子は良いんだけど、先輩秘書さん達は何をやっているのかしら?今日私が来る事は知っていた筈なのに、受付に座る新人にそれを伝えていなかったなんて」

有希子の言葉に、新一が苦笑して答えた。

「父さん程上手に手綱を扱えなくて・・・不手際で申し訳ない」
「ふふふ、それは新ちゃんがまだ独身の所為もあるわね。秘書室の新人があんなに綺麗で可愛くて純な子なら、先輩さん達の苛めに遭うのも無理ないわ」

程なく蘭が言われた通りにコーヒーをひとつと紅茶をふたつトレイに入れて運んで来た。
有希子が蘭を手招きして空いたソファーに座らせる。
蘭はもうひとつの紅茶の意味を解し、新一と有希子のさり気ない優しさに感謝しながら腰掛けた。

「あら、美味しい」
「そうだろ?毛利くんはお茶の淹れ方がとても上手なんだ」

有希子が紅茶を1口飲んで言った言葉に新一がどこか自慢げに答え、蘭は茹蛸のように真っ赤になった。
有希子は嬉しそうに目を細めて蘭を見た。

「ホント、良い新人さんが入ってくれて、嬉しいわ。社長という仕事、意外と色々大変で、秘書の仕事って重要なのよ。新ちゃんの事、宜しく頼むわね」
「はい、まだ未熟ですが、頑張ります」
「・・・ときに蘭ちゃん、あなた本当に綺麗な娘さんになったわねえ。英理とはタイプが違うけど、英理に負けない位の美人だと思うわ」

有希子の言葉に、新一も蘭も驚き、目を丸くした。

「な・・・?か、母さん、ら・・・毛利くんの事、知ってたのかよ?」
「あ、あの・・・失礼ですが、私の母の事・・・?」
「あら、だって蘭ちゃんのご両親、小五郎くんと英理は、私の高校時代の同級生ですもの」
「ええっ!?」
「スゲー偶然・・・」

蘭が思わず声を上げ、新一は前屈みになり頭を抱えて呟いた。

「英理だって、ナイトバロン社のオーナーが私たちだって事、知ってる筈なんだけどな。蘭ちゃん、英理から何も聞いてない?」
「あ、いえ・・・父や母からは、何も」
「もう、あの子もとんだ狸なんだから。でね、蘭ちゃん、わがナイトバロン社は人材が揃っている事とそれぞれの能力を引き出し伸ばしている事には自信があるんだけど、今現在、社長秘書室がわが社のお荷物でね」
「え?は、はあ・・・」
「蘭ちゃんには期待しているわ。暫らくの間、先輩方の苛めがキツイと思うけど、耐えてね」
「ええ?苛め、ですか・・・?」

蘭がきょとんとした顔で言い、新一と有希子は苦笑した。

「あらあらあら、蘭ちゃんったら、気付いてなかったのね」
「母さん。毛利くんは、儚げに見えるけど意外と芯がしっかりしているんだ。そう簡単に屈したりする娘じゃねーよ」
「ふ〜ん。新ちゃん、信頼するのは結構だけど、女ってあなたの想像以上に怖いのよ?」
「わかっているさ。それに、もう後そう長い間じゃない」
「せいぜいその間に蘭ちゃんが潰されないよう、守ってあげる事ね」
「はいはい」

蘭は目を丸くして2人のやり取りを聞いていた。



蘭が思いの他秘書の仕事を早く覚えたので、新一は早くも6月には次の手を打った。
新人の蘭を除いた社長秘書室のメンバー3人に、人事異動命令が出たのである。




(4)に続く



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(3)の後書き

週末を一緒に過ごせない。何かの歌を思い出しそうですが、愛人ぽいシチュエーションになってまいりました。「社長」と「秘書」という関係が、尚更に(爆)
これはもう、後々出てきますけども、新一くんの考えの足りなさと言葉の足りなさと迂闊さが原因で蘭ちゃんを不安に陥れているんですね。実は彼なりの気配りをしてるんですけどそれは完全に裏目に出ているし。
早くラブラブハッピーエンドにもって行きたいけど、もうちょっとかかりそうです。なるべく蘭ちゃんを苦しめたくないのだけど、クライマックス近くには絶対蘭ちゃん泣かせそう・・・うう、ごめんなさい。

秘書室の苛め編は、不愉快な為長々と書きたくなかったので早々に切り上げました。あの3人は次回もう少し足掻きますが、すぐに消えます。
最初、先輩秘書に内田麻美さんを使おうと思っていたのですが、流石にそれではあんまりな為オリジキャラに変更しました。(悪いけど正直、原作の内田麻美さんってあまり好きではないのですよ)

そして、有希子さんが予定外に早くご出演あそばされました。鋭い彼女の事、新一くんがどんなに足掻いても、色々気付いていそう。う〜ん、ちょっとばかし軌道修正が必要かなあ。

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